真田の生き残りを託された兄
真田信幸 さなだ・のぶゆき
[吉村界人 よしむらかいと]真田昌幸の長男。徳川との対立関係を解消するため、本多忠勝の娘を妻にする。関ヶ原合戦にあたっては、真田家存続のため、父と反目する家康に味方するなど、真田と徳川の間で葛藤する。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より。
……おいおい、ちょっと待って下さいよ。これじゃあまるで父の真田昌幸(佐藤浩市)&弟の真田信繁(日向亘。真田幸村)が、最初から敗れ去ると読んでいたみたいじゃないですか。
たとえ御曹司といえども、かつて「信玄の小脇指(懐刀)」と恐れられた我らが安房守(真田昌幸)を侮ってもらっては困りますね。
まぁ、ドラマの設定はともかくとして。果たして真田信幸がどんな武将だったのか、その生涯をたどってみましょう。
乱世を泳ぎわたる父親の背中に学ぶ
真田信幸は永禄9年(1566年)に真田昌幸の長男として誕生します。母親は正室の山手殿(やまのてどの。菊亭晴季の娘)、通称を源三郎(げんざぶろう)と言いました。
幼少期を武田信玄(阿部寛)のもとで人質として過ごし、天正7年(1579年)に14歳で元服。武田家の通字「信」を授かり信幸と改名します(のち真田信之と再改名しますが、今回は信幸で統一)。
天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると信州上田城主を務める父の元へ逃げ延び、武田遺領をめぐる徳川家康(松本潤)・北条氏政(駿河太郎)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の争いを泳ぎ抜く父の器量を目の当たりにしたことでしょう。
天正13年(1585年)に家康との間に勃発した第一次上田合戦では上田城の支城である戸石城に立て籠もり、徳川勢の横っ腹を衝くなど武勲を立てます。
大軍をもって攻め込みながら撃退されてしまった家康は、真田を懐柔するため本多忠勝(山田祐貴)の娘である小松姫(鳴海唯)を信幸に嫁がせました。
時に天正15年(1587年)、二人の間には二男二女(まん、まさ、真田信政、真田信重)が生まれています。
天正17年(1589年)になると駿府へ赴いて家康に仕え、文禄3年(1594年)には従五位下・伊豆守に叙任。ちなみに弟・真田信繁は従五位下・左衛門佐に叙せられました。
その後、従四位下・侍従に昇進、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では九州の遠征拠点である肥前名護屋に駐屯しています。
父・弟と訣別、家康に忠義を貫く
やがて天下人・豊臣秀吉(ムロツヨシ)が世を去ると、政権簒奪の野心を顕わし始めた家康が、秀吉遺児の豊臣秀頼(作間龍斗)を支える石田三成(中村七之助)と対立。
父と弟が三成率いる西軍へ属するのに対して、信幸は家康率いる東軍に与しました。
家康は信幸の忠義を賞賛し、昌幸の所領信州小県郡38,000石を召し上げてそのまま信幸に与えます。このことによって、父子の関係は険悪になっていきます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では、家康嫡男の徳川秀忠(森崎ウィン)に属し、父と兄が立て籠もる上田城を攻め立てました。これが第二次上田合戦、秀忠は大軍を率いていましたが、散々翻弄される結果となったのです。
しかし結果は東軍の勝利、敗軍の昌幸・信繁らは処刑されることになったものの、信幸のとりなしによって二人は高野山への流刑に留まりました。
果たして信幸は上田城主となり、父の所領38,000石に加えて上野国利根郡27,000石、更に30,000石が加増されて95,000石の大大名に出世します。
父と弟を捨てて忠義を尽くした信幸は家康・秀忠から厚く信頼され、慶長10年(1605年)に秀忠が第二代征夷大将軍の宣下を受けるハレ舞台に供奉しました。
そして慶長19年(1614年)大坂冬の陣では長男の真田信吉(のぶよし。母は清音院殿)と共に出陣、豊臣秀頼や弟らを滅ぼします。
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息子や孫よりも長生きした晩年
泰平の世が訪れた元和8年(1622年)、これまでの武功によって40,000石を加増され、本拠地を上田城から松代城へと移しました。
合計135,000石の中から30,000石を信吉に、17,000石を次男の真田信政に分け与えますが、寛永16年(1639年)4月20日に信吉が先だってしまいます。
信吉の嫡男・真田熊之助(くまのすけ。6歳)が遺領を受け継いだものの間もなく亡くなってしまい、30,000石のうち信政は22,000石、熊之助の弟である真田信利(のぶとし。兵吉)が5,000石をそれぞれ受け継ぎました。
また信政の所領39,000石のうち、元から領していた17,000石については真田信重に譲りますが、慶安元年(1648年)10月25日に信重は亡くなってしまいます。
信重には跡継ぎがいなかったため改易(所領を全没収)されかけたものの、信幸の永年にわたる忠功に免じて返還されたということです。よかったよかった。
信幸は明暦2年(1656年)10月30日に致仕(引退)、11月7日に永年愛用してきた高木貞宗(たかぎ さだむね)の太刀と葉茶壷を徳川将軍家へ献上。出家して一當斎(いっとうさい)と改名します。
そして万治元年(1658年)10月17日、93歳で世を去ったのでした。戒名は大鋒院殿徹巌一当大居士(だいほういんでんてつげんいっとうだいこじ)、墓所は長野県松城町の大鋒寺・同町の長国寺などにあり、今も人々を見守っていることでしょう。
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終わりに
父や弟と対立して、真田家の家名を後世につないだ真田信幸。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな活躍を魅せてくれるのでしょうか。
これからも、吉村界人の熱演に期待ですね!
※参考文献:
- 黒田基樹 編『シリーズ・織豊大名の研究5 真田信之』戎光祥出版、2017年4月
- 高柳光寿ら編『新訂 寛政重修諸家譜 第11』平文社、1965年5月
- 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015年11月
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