時は慶長5年(1600年)9月15日。天下分け目の関ヶ原合戦では、多くの武将が活躍しました。
今回は徳川家康率いる東軍に属し、武勲を立てた有楽斎こと織田長益(信長弟)と、その子・織田長孝を紹介。名だたる敵の首級を献上せんと、意気揚々やってきました。
あれ?何か反応がよくないご様子……
……織田源五郎入道有楽は石田が家臣蒲生備中が首を提げ来りしかば。有楽高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。……
※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」
織田有楽斎は石田三成の家臣・蒲生頼郷(備中守)の首級を家康に献上します。
「おぉ、入道殿。此度は大儀であった」
「いえいえ、年甲斐もなく槍など振るってしまいまして」
謙遜する有楽斎でしたが、家康は思いの外寂しげな様子。
「しかし備中は、若い頃より優秀であったが、此度の戦さでは不憫なことであった。入道殿、どうか懇ろに弔ってやって欲しい」
「……御意」
出来ることなら、生かして召し抱えたかったこようです。しかし、家康が見込むほどの人物ですから、主君に対する忠義をまっとうするのも無理はありません。
まだまだ先の長い天下取りに役立ったろうに……家康としては、悔やまれてならなかったことでしょう。
とは言うものの、いかに有能であろうと今は敵。それを討ち取った有楽に対するお褒めが、もう少しくらいあってもよかったように思います。
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褒められるどころか怒られた!
……入道が子河内守長孝も戸田武蔵守重政が冑の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覧あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の様して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の 当家にさゝはる事を志り。御家の為にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を抜きてその槍を散々に切折りしとぞ。……
※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」
さて、続いて織田有楽斎の息子・織田長孝(河内守)もやってきました。彼が献上したのは、敵方の猛将・戸田重政(武蔵守)の兜首です。
「おぉ、これは誠に見事な……」
兜の鉢(頭部を保護するメイン部分)をざっくりと槍で貫いており、槍の素晴らしさと長孝の腕前を物語ります。
「して、これがその槍か……」
家康が長孝の槍を手に取った瞬間、家康は指先を切ってしまいました。
「いてっ!」
「内府様、申し訳ございませぬ!」
出血を抑えながら、家康は憎々しげに尋ねます。
「そなた……よもや、その槍は村正の作ではあるまいの?」
「は。如何にもそのよもや、これなる槍は村正の作にてございます」
これを聞いて家康は俄かに激怒。長孝を追い出してしまいました。
「おのれ、ただちに立ち去れっ!」
「えぇっ!?ぎ、御意つ!」
村正の刀は祖父・松平清康の代から度々一族を傷つけ、ついには家康にも仇なしたのです。
- 家康の祖父・松平清康……村正の刀で暗殺。
- 家康の父・松平広忠……村正の刀で暗殺(諸説あり。創作か?)
- 家康の嫡男・松平信康……村正の刀で介錯(斬首)
そして家康自身も、幼少時に村正の小刀で怪我をしたとも言われています(これも創作か)。
「まったく忌々しい!村正の刀は、よほど当家に恨みでもあると見える!」
家康は脇差を抜き放つと、その場に残された長孝の槍をバキバキ砕いてしまったのでした。
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終わりに
以上、関ヶ原の合戦で武勲を立てた織田有楽斎・織田長孝のエピソードを紹介してきました。
それにしても、父親はあんまり喜ばれず、息子に至っては怒られて槍を砕かれるなど散々ですね。代わりの槍でも下賜されていればいいのですが……。
NHK大河ドラマ「どうする家康」には描かれませんでしたが、関ヶ原の合戦では多くの武将たちが手柄を立てています。彼らの活躍についても、改めて紹介したいですね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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