♪ま~さか~り、か~つい~だ、き~んた~ろう~……♪
足柄山で山姥に育てられ、熊と相撲をとるほどの豪傑少年・金太郎。昔話「金太郎」の主人公として、令和の現代でも人気のキャラクターです。
そんな金太郎にはモデルが実在しており、坂田金時(さかたの きんとき。酒呑童子を退治した頼光四天王の一人)が知られています。
しかし実は他にもモデルがいるそうで、彼の名は下毛野 公時(しもつけぬの きんとき)。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
近衛府官人「第一の者」
下毛野公時は長保2年(1000年)、下毛野公友(きんとも)と尾張兼時女(おわりの かねとき娘)の間に誕生しました。
下毛野氏は代々下級武官を務める一族で、その出自は北関東・下野国(しもつけのくに。現代の栃木県)と考えられます。
幼少期から利発だったようで、10歳となる寛弘6年(1009年)には近衛舎人(このゑのとねり)として仕えました。
近衛舎人とは内裏を警固する近衛府に仕える下級官人で、何かと機転の利く者が重宝されたようです。
その後も文武両道の才能を発揮。三条天皇が行幸された際は東遊(あづまあそび)歌舞を披露したり、真手結(まてつがい)で騎射を披露したりなど、大いに活躍しました。
人々はそんな公時を近衛府官人「第一の者」と呼び称えたと言います。
近衛舎人50名を指揮する番長に
そんな逸材を藤原道長が放っておくはずもなく、後に随身(ずいじん。従者)として召し抱えました。
また近衛府の番長(ばんちょう/つがいのおさ)に抜擢されます。
番長とは舎人らの現場指揮官で、定員は近衛府の左右それぞれ6名。舎人は左右それぞれ300名いたので、一人あたり50名を指揮していました。
※現代で言う不良集団の頭目である番長は、これに由来します。
まだ十代の若者が、50名の指揮を執っていたのは道長の威光だけではないでしょう。
※居さえすれば問題のない上級貴族とは異なり、現場の実務を担う下級官人は地位や役職に相応しい能力が求められたはずです。
筑紫の地で急死
そんな前途有望どころではない優秀さを誇った公時ですが、寛仁元年(1017年)に相撲使(すまいのつかい)として筑紫(つくし。九州北部)へ派遣された折、現地で急死してしまいました。
相撲使とは相撲節会(すまいのせちえ)に出場する力士の選抜などを担当する役職です。
公時の死因については明らかにされてはいませんが、病死なのか、あるいは殺されたのかも知れません。
仮に殺されたとするなら、例えば能力や道長からの寵愛に驕り、その態度が周囲の反感を買った可能性も考えられます。
享年18歳。あまりにも若すぎる死でした。
下毛野公時・基本データ
出自:下毛野氏(下野国の豪族か)
生没:長保2年(1000年)生~寛仁元年(1017年)没
改名:幼名不詳→下毛野公時
両親:下毛野公友/尾張兼時女
兄弟:不明
伴侶:不明(なし?)
子女:不明(なし?)
主君:藤原道長
異名:近衛府官人「第一の者」
位階:無位
官職:近衛舎人→近衛番長→相撲使
特技:歌舞、騎射
そして伝説へ
惜しまれながら世を去った下毛野公時。その人気は死後も衰えることなく、『今昔物語集』では源頼光(らいこう/よりみつ)の郎党として公時の名が加えられています。
この公時が坂田金時となったとも言われ、鎌倉時代から戦国時代にかけて頼光四天王伝説が定着しました。
頼光四天王と言えば渡辺綱(わたなべの つな)に平季武(たいらの すえたけ)、碓井貞光(うすいの さだみつ)そして坂田金時です。
この坂田金時が幼い頃から豪傑で、足柄山の金太郎伝説を生み出したのでした。
もしその通りであれば、金太郎は神奈川県出身ではなく京都出身(ルーツは栃木県?)だったことになります。
終わりに
今回は金太郎のモデルと言われる下毛野公時について紹介してきました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」には多分登場しないでしょうが、こういうマイナ―な人物も多数活躍していたので、また紹介したいと思います!
※参考文献:
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年4月
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