平安時代、関東地方(坂東)に勢力をのばした坂東平氏(ばんどうへいし)。
その祖となった平良文(たいらの よしふみ)は村岡の地に住んだため村岡五郎(むらおかの ごろう)とも呼ばれました。
今回は良文が館を構えていたと伝わる村岡城址を訪問。果たして、どんなところなのでしょうか。
南関東に大勢力を築き上げた平良文の生涯
と、村岡城址を訪ねる前に、まずは村岡五郎こと平良文がどのような武将だったのか、ダイジェストで見ていきましょう。
平良文は仁和2年(886年。『千葉大系図』による)、平高望(たかもち。桓武天皇の孫、高望王)の五男として誕生しました。
母親は藤原範世(ふじわらの のりよ。師世とも)の娘、優しい顔立ちと勇敢さを兼ね備えていたと言います(現代で言うギャップ萌えですね)。
昌泰元年(898年)に父の高望王が東国へ下り、兄の平国香(くにか)、平良兼(よしかね)、平良持(よしもち。良将)らは従うものの、側室の子であった良文は京都に留まりました。
連れていってあげればいいのにとも思いますが、東国に拠点を築く一方、都にも拠点を残しておきたい意図があったのでしょう。
この時、父に従って東国へ下った平国香、平良兼、平良持の子孫らは坂東平氏として群雄割拠するのですが、それはまたのお楽しみに。
さて、京都に残っていた良文は延長元年(923年)、醍醐天皇より「相模国に跳梁跋扈する賊を討伐せよ」と勅命を承り、勇んで相模国へ下向しました。
村岡(相模国鎌倉郡村岡郷)に居館を築いたのはこの頃と考えられ、盗賊を滅ぼした後も村岡に留まり、勢力を拡大。
武蔵国熊谷郷村岡(現:埼玉県熊谷市)や下総国結城郡村岡(現:茨城県下妻市)に所領を得たほか、同国海上郡(千葉県東庄町)、阿玉郡(同県香取市)にも居館があったと伝わり、南関東各地に大きな影響を及ぼしていたことが分かります。
天慶2年(939年)、出羽国で俘囚(ふしゅう。朝廷に服属していた蝦夷)が叛乱を起こしたため、陸奥守であった良文は鎮守府将軍を拝命して秋田城司の援軍に駆けつけ、翌天慶3年(940年)に凱旋しました。
ちなみに天慶と言えば甥の平将門(まさかど。平良持の子)が関東で叛乱を起こし、新皇を僭称した際、良文は将門に与したとも討伐に加わったとも諸説あります。
ただ『将門記』にはどちらに属したとも言及がなく、甥と気脈を通じながらも朝敵に加勢はできず、中立を保ったのかも知れません。
将門の叛乱が鎮圧された後、良文は将門の旧領であった下総国相馬郡(現:茨城県南西部)を与えられていることから、その行動が一定以上の評価を得ていたのは間違いなさそうです。
もし良文が将門に味方していれば、関東地方に王朝が並立していたかも知れない可能性を思うと、その存在の大きさが偲ばれます。
晩年は子の平忠頼(ただより)、平忠光(ただみつ。早逝した長兄・平忠輔の後を継ぐ)に家督を譲って隠居し、天暦6年(952年)に67歳で世を去ったのでした。
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関東武士のゴッドファーザーを偲ぶ
……さて、そんな村岡五郎こと平良文の居館があったと伝わる村岡城址公園に行ってきました。
と言っても現代の私たちがよく想像するような石垣やお堀、まして櫓や天守閣がある訳ではなく、小高く盛り上がった台地の住宅街に埋もれるように広がる、ごく普通の公園です。
入って右手奥に戦没者の英霊を祀る忠魂碑や三日月井(みかづきのい。井戸)があったことを示す石碑、また村岡城の由緒を刻んだ石碑などが、かつてここが平良文の城、居館であったことを示す便(よすが)となっています。
額 元帥伯爵東郷平八郎書
村岡城の地位は古来武相交通の要衝に在り往年従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任せられ多くの荘園を有し威を関東に振ひたり天慶の乱起るに及び藤原英聡平貞盛と共に将門を征討し大に軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族澁谷庄司重國あり其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城址を史蹟として縣廰より指定せらる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人會の賛助を得城址に碑を建て以て後昆に傳ふと云爾
海軍中将東郷吉太郎撰書
昭和七年十月三日 鎌倉同人會建之
※村岡城址公園内の石碑より
文中に登場する渋谷重国(しぶや しげくに)以外にも、千葉(ちば)氏、上総(かずさ)氏、川越(かわごえ)氏、江戸(えど)氏、三浦(みうら)氏、鎌倉(かまくら)氏など多くの一族が輩出され、後に源頼朝(みなもとの よりとも)公の開かれた鎌倉幕府を支える有力な御家人となりました。
まさに関東武士のゴッドファーザーとなった平良文。他にも色々と伝承があるので、そちらの方も又の機会に紹介できればと思います。
※参考文献:
- 河尻秋生『平将門の乱』吉川弘文館、2007年3月
- 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』吉川弘文館、2012年8月
- 平野邦雄ら編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年10月
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