甲斐国
当国の風俗は、人の気尖にして片クヘ也、傍若無人の事多し、因茲上は下を苦め、下は上を敬せず……【意訳】この国の人々は気が荒くて偏屈で、傍若無人な振る舞いが目立つ。そのためお上は圧政を敷き、民衆は反抗的である……
……強勇にして死を事とせず、軍陣に於て親眼前に討たれぬれば、子是を見て其死骸を踏越えて共に討死を遂げ、子亦討たれぬれば、親亦如斯……
【意訳】勇敢で死を恐れず、戦さにおいて親が目の前で討たれても、怯むことなくその屍を踏み越えて死ぬまで戦う。子が討たれた親もまた同じ……
※『人国記』より抜粋
勇猛果敢で独立自尊の気概に富んだ甲州(現:山梨県)人は、支配者からすれば治めにくいことこの上ない人々とされていました。
かの武田信玄(たけだ しんげん)公をしても完全には支配しきれず、やがて戦国乱世が過ぎ去り、徳川(とくがわ)将軍家の威光も衰えつつあった江戸時代末期には、甲州博徒(こうしゅうばくと)と呼ばれるアウトローが多数出現、大いに暴れ回ったと言います。
今回紹介するのはそんな一人・竹居安五郎(たけいの やすごろう)のエピソード。果たして安五郎は、どんな暴れっぷりを見せるのでしょうか。
甲州博徒デビューから島流しまで
竹居安五郎は江戸時代後期の文化8年(1811年)4月15日、甲斐国東八代郡竹居村(現:山梨県笛吹市)の名主・中村甚兵衛(なかむら じんべゑ)の四男として誕生しました。母親は“やす”、名前の安五郎はそこからとったのかも知れません。
四男だけど安五郎なのは、五番目の子供だった≒姉が一人いた可能性が考えられます。
人相書きによれば、色白で鼻筋の通った顔立ち、目は細く背中にはいつ突かれたのか槍傷があったと言います、また、吃音(どもり)であったことから「吃安(どもやす)」とあだ名されたそうです。
父の甚兵衛は村の名主であったと共に管内の無宿人を取り締まる郡中総代にも任命されていたことから、幼き日の安五郎もアウトローたちと接する機会があったことでしょう。
安五郎の青年期は天保の大飢饉(天保4・1833年~天保10・1839年)をはじめとする社会不安から甲州博徒の活動が活発化、天保7年(1836年)には発生した一揆が暴徒化(※)、いよいよ甲斐国内は混乱を極めます。
(※)最初はあくまでも貧民救済を求める義民らによる秩序だった抗議活動でしたが、次第に甲州博徒が乱入し、収拾がつかなくなってしまいました。
この後世に言う「天保騒動」は間もなく鎮圧されたものの、甲州博徒の跋扈はとどまることを知らず、天保8年(1837年)には安五郎も博徒デビューを果たします。
富士川の水運を活かして富士川流域に縄張りを広げ、利害の対立する鴨狩津向村(現:山梨県市川三郷町)の津向文吉(つむぎの ぶんきち)と抗争を繰り広げました。
その間、安五郎は天保11年(1840年)に博奕の罪で中追放の刑に、天保12年(1841年)には累犯のため重敲刑に処されます。
中追放とは家屋敷や田畑を没収し、居住地および江戸10里四方(半径約20キロ)などへの出入り禁止処分ですが、元々アウトローの安五郎がそんなものを守るはずもなく、重敲(じゅうたたき。鞭打ち100回)となったのでした。
まぁしかしそれしきのことで挫けていては甲州博徒の恥さらし……安五郎は性懲りもなく文吉と抗争を繰り返し、弘化2年(1847年)には鰍沢(かじかざわ。現:山梨県富士川町)で大々的な出入り(乱闘)を演じたと言います。
「やれやれ……お前ぇとは、終生の好敵手になりそうだなぁ……」
と思っていたかは知りませんが、嘉永2年(1849年)、文吉が八丈島への流刑に処せられ、甲州博徒としての人生は実質的に断たれました。
「やーい、島流しにされてやんの。バーカバーカ、ざーまーあー!」
……などと笑っていたら、嘉永4年(1851年)、今度は自分が伊豆の新島へ流罪となってしまいます。
「トホホ……」
普通ならここでアウトローとしての人生は終わってしまうのですが、ここからが安五郎の真骨頂でした。
盗んだ漁船で脱走(はしりだ)す……新島から華麗な?カムバック
「なぁ、安の兄貴……」
新島へ流されてから年も明けた嘉永5年(1852年)、安五郎に声をかけたのは同じく島流しにされていた丑五郎(うしごろう)と角蔵(かくぞう)、そして貞蔵(ていぞう)でした。
「アンタほどの人物が、こんな絶海の孤島で朽ち果てるのはあまりに惜しい……そこで、俺たちみんなで島抜け(脱走)しようと思うンだが、力を貸してくれねぇか」
もちろん、こんなところにいつまでも居たくなかった安五郎はこれを快諾。他に源次郎(げんじろう)、長吉(ちょうきち)、造酒蔵(みきぞう)も仲間に誘って合計7人。みんなで脱出計画を立てながら、そのチャンスを虎視眈々と狙ったのでした。
そしてついに千載一遇の好機がやって来たのは嘉永6年(1853年)6月8日。6月3日にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀へ来航、その対応に追われる当局が、新島の役人も狩り出したことで警備が手薄になったのです。
「行くぞ!」「「「おう!」」」
安五郎ら7名は新島の名主である前田吉兵衛(まえだ きちべゑ)宅を襲撃してこれを殺害、鉄砲の強奪に成功します。吉兵衛の孫である前田弥吉(やきち)は果敢に抵抗しましたが、負傷して縛り上げられてしまいました。
「よし、舟を出せ!」
続いて安五郎らは水夫の市郎左衛門(いちろうざゑもん)と喜兵衛(きへゑ)を襲って拉致し、奪った漁船を焦がせ、まんまと新島から出航したのでした。
「オラ、死にたくなければ疾々(とっと)と漕ぎやがれ!」
「「ひい……っ!」」
♪盗んだ漁船で脱走(はしりだ)す……行く先は……伊豆半島の網代(あじろ。現:静岡県熱海市)に上陸。
各地の侠客らに助けられながら、みごと帰郷を果たして甲州博徒に再デビュー。黒駒勝蔵(くろこまの かつぞう)ら有力な子分も従え、着々と勢力を取り戻しつつありましたが、当然それを快く思わない者たちが、何とか安五郎を潰そうと、必死に妨害するのでした。
エピローグ
「……野郎ども、ズラかるぞ!」「「「へい!」」」
「追え……逃がすな!」
関東取締出役(かんとうとりしまりでやく。八州廻り)や代官らに追われるのはもちろんのこと、同業者である国分村(現:笛吹市)の国分三蔵(こくぶの さんぞう)や勝沼の祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ)、甲府柳町の三井卯吉(みついの うきち)、果ては上野国(現:群馬県)から流れて来た浪人・犬上郡次郎(いぬがみ ぐんじろう)までもが敵に回ったと言いますから、よほど脅威とされていたのでしょう。
安政7年(1860年)には兄の中村甚兵衛(父と同じ屋号を襲名)が亡くなったことで陰から援助してくれていた後ろ盾を失い、明けて文久元年(1861年)には祐天らの手引きによって石和の代官所に捕縛されてしまいます。
そして文久2年(1862年)3月に甲府境町の獄舎へ移送され、間もなく獄死。52歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
かくして世を去った安五郎の勢力は黒駒勝蔵が引き継ぎ、やがて「海道一の大親分」として名を馳せた清水次郎長(しみずの じろちょう)のライバルとなるのですが、その辺りのお話しは、またの機会に出来たらと思います。
※参考文献:
- 子母澤寛『遊侠奇談』ちくま文庫、2012年1月
- 髙橋敏『博徒の幕末維新』ちくま新書、2004年2月
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