第1回放送からずっと「松平(まつだいら)」だった家康(竹千代→元信→元康)。早くおなじみの「徳川」家康になって欲しいところですが、家康はいつごろから徳川になったのでしょうか。
松平から徳川への改姓時期については諸説ありますが、おおむね永禄9年(1566年)ごろとするのが通説のようです。
ただし江戸幕府の公式記録である『徳川実紀(厳密にはその補足書である同附録)』には永禄12年(1569年)と記載されており、これはどっちが事実に近いのでしょうか。
さっそく原文を読んでみましょう。
改姓が先か、三河守が先か
……永禄十二年これより先松平の御称号を止められ。徳川の舊氏を用ひ給ひしかども。舊冬此よしはじめて京都将軍家(義昭。)へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ。去冬十二月九日 勅許ありて。この正月三日将軍家より口宣案にそへて御内書御太刀を贈らる。(武徳編年集成。)
改年之吉兆珍重々々。更不有休期候抑
※『東照宮御実紀附録』巻二「文禄(原文ママ)十二年勅許徳川称号」より
徳川之儀遂執 奏候處。
勅許候。然者口宣案并女房奉書申調
指下之申候。尤目出度候。仍太刀一腰進上候。
誠表祝儀計候。萬々可申通候也。
正月三日 義昭
徳川三河守殿
※「改年之吉兆珍重々々」~「徳川三河守殿」までの書状について、表示の都合で原文と文字配置が異なります。
【意訳】永禄12年(1569年)以降、これまで使っていた松平の苗字を廃止して、祖先の徳川(得川)に改めた。昨年の冬に京都の将軍・足利義昭(演:古田新太)に申請、公卿の近衛前久(このゑ さきひさ)の取り次ぎにより、永禄11年(1568年)12月9日付で朝廷より御許し(勅許)をいただいた。それで永禄12年(1569年)1月3日、将軍家より辞令(口宣案)に添えて太刀が贈られる。
一方で、『徳川実紀』本編にはこんな記述があります。
……九年十二月廿九日叙爵し給ひ三河守と称せられ……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄七年-同十一年「永禄九年家康叙爵任三河守尋兼左京大夫」
通説では家康が三河守(国守)となるに際して、それまで称していた清和源氏の末裔という設定が不都合(※)となり、藤原氏の流れを汲む得川(とくがわ)氏を称するようになったと言います。
(※)三河の国守は藤原氏の縁者が任じられるのが通例で、得川氏は源氏と藤原氏双方の流れを汲む家系とされました。
だから家康は三河守になったのと同時か、その直前に松平姓を徳川(得川)に改めたと考えられます。
ただし後年「武家の棟梁」たる征夷大将軍に任じられるため、再び清和源氏の末裔に設定を戻しました(それでいいのか?と思いますが、こうした家系図の改竄は家康のみならず多く行われていたようです)。
とは言え徳川幕府当局としては、あくまで永禄12年(1569年)に松平から徳川に改姓したものと理解しており、それを踏まえて『徳川実紀』『同附録』の時系列をまとめるとこうなります。
永禄9年(1566年)
12月29日……家康が三河守となる永禄11年(1568年)
冬(10月~12月の間)……足利義昭へ改姓(朝廷へ取り次ぎ)を申請
12月9日……朝廷より改姓の勅許が下る永禄12年(1569年)
※『徳川実紀』『同附録』による
1月3日……将軍家より口宣案を賜わり、以降「徳川(得川)」を称する
まずは三河守となった家康が「それに相応しい家柄にならねば(改竄せねば)ならぬ」と、後付けで藤原氏の「得川(徳川)」へ改姓したものと解釈したのでしょう。
実力さえあれば、大義名分など後付けできる。いかにも戦国乱世らしく、そのように考えられていたのかも知れませんね。
(恐らくは『東照宮御実紀附録』が年号を書き間違えたものと思われますが)
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終わりに・徳をもって天下を治める
ちなみに、この「徳川」姓は家康(徳川宗家、後に御三家も)のみに許されたものであり、他の松平一族を束ねる上で大きな影響力を発揮しました。
武で天下を治める覇道に対して、徳で天下を治める王道をゆく家康に相応しい徳川の姓。NHK大河ドラマ「どうする家康」ではこの改姓をどのように描くのか、楽しみにしています。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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