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親の顔は見られないけど…天下人・豊臣秀吉の両親はどんな人だった?『系図纂要』より

戦国時代
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よくロクデナシについて「親の顔が見てみたい」なんて言いますが、成功者についてもどんな両親に育てられたのか、興味を持つ方は多いものです。

百姓のせがれから立身出世を果たし、一代で天下人となったとされる豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)についても、やはりその両親について人物像が気になります。

ご存じ豊臣秀吉。狩野光信筆

秀吉の出自に関しては諸説あり、荒唐無稽な伝承なども入り乱れてどれが事実なのか分かりません。

そこで今回は一説として『系図纂要』を紹介。秀吉の両親がどんな人物であったか、うかがい知る参考になればと思います。

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秀吉の父・木下弥右衛門

木下弥右衛門

尾州愛智郡中中村人
織田信秀戈(※)卒
天文十二年正ノ三死 妙雲院栄本

(※)戈の字に金へんがつく。機種依存文字のため以下「戈」で統一

※『系図纂要 号外十八』豊臣朝臣姓より

木下弥右衛門(きのした やゑもん)は尾張国愛智郡中村(現:愛知県名古屋市中村区)の人。

織田信秀(おだ のぶひで)に仕えた兵卒(足軽)で、天文12年(1543年)1月3日に亡くなりました。
戒名は妙雲院栄本(みょううんいん えいほん)。

織田信秀に仕えた弥右衛門(イメージ)

戈は「カ」「ほこ」と読み、ここでは槍と解釈できるでしょう(鉄砲という説もありますが、弥右衛門の死亡当時にそこまで鉄砲が普及していたとは考えにくい)。

死因については書かれていないものの、戦さで追った傷などが一因ではないかとも言われています。

秀吉はまだ8歳。母が再婚した竹阿弥(ちくあみ。織田家の茶坊主などこちらも出自に諸説あり)との折り合いが悪く、やがて秀吉は生花家を飛び出すのでした。

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秀吉の母・なか

尾州愛智郡御■同村人
贈従一准后 天瑞寺春厳宗桂
文禄二年七ノ廿五薨八十

※■は判読不能。

※『系図纂要 号外十八』豊臣朝臣姓より

秀吉の母も同じ村の人。後に従一位(じゅいちい)の位階と准后(じゅごう。ここでは皇太后に準ずる)の身分を贈られ、出家後は天瑞寺春巌宗桂(てんずいじ しゅんげんそうけい)と号します。

大政所の通称でも有名。大徳寺蔵

文禄2年(1593年)7月25日、80歳で薨去(こうきょ。貴人が亡くなること)しました。

秀吉の母と言えば「なか(仲)」の名前で知られますが、これは江戸時代に秀吉伝説をまとめた『太閤素生記(たいこうすじょうき)』によるもので、史料における裏づけはありません。

秀吉のほか長女の(とも。日秀尼)・小一郎(こいちろう。羽柴秀長)・朝日姫(あさひひめ。南明院)などを生み育てます。

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終わりに

以上、『系図纂要』が伝える秀吉の両親について紹介してきました。

身体を張って奉公に励む秀吉。月岡芳年筆

10歳そこそこで家を飛び出し、どこで野垂れ死にするかと思ったら、あれよあれよと立身出世。ついには大名・天下人……ご両親の驚きは大変なものだったでしょう。

「いやぁ、今度あの子が帰って来たら、いったい何になっているんだろうね?」

楽しみな反面、ちょっとおっかないような……。

※参考文献:

  • 飯田忠彦『系図纂要 号外十八』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書、1985年11月
  • 桑田忠親『桑田忠親著作集 第七巻 戦国の女性』秋田書店、1979年1月

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