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ドキュメント実朝暗殺。『吾妻鏡』は運命の建保7年(1219年)1月27日をどう描いたか【鎌倉殿の13人】

鎌倉時代
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建保7年(1219年)1月27日。第3代鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)が、甥の公暁(演:寛一郎)によって暗殺されました。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は、そんな運命の一日をどう描いているのでしょうか。さっそく見ていきましょう。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にもどうぞ。

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ドキュメント実朝暗殺。『吾妻鏡』原文

当日の物々しい雰囲気を感じて欲しくて載せました。

でもあまりに長いので、面倒な方は読み飛ばして大丈夫です。

霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拝賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。

行列
先居飼四人〔二行退紅縫越手下〕
次舎人四人〔二行柳上下平礼〕
次一員〔二行〕
將曹菅野景盛 府生狛盛光
將監中原成能〔以上束帶〕
次殿上人〔二行〕
一條侍從能氏          藤兵衛佐頼經
伊豫少將實雅          右馬權頭頼茂朝臣
中宮權亮信能朝臣〔子随臣四人〕 一條大夫頼氏
一條少將能継          前因幡守師憲朝臣
伊賀少將隆經朝臣        文章博士仲章朝臣
次前駈笠持
次前駈〔二行〕
藤匂當頼隆     平匂當時盛
前駿河守季時    左近大夫朝親
相摸權守經定    藏人大夫以邦
右馬助行光     藏人大夫邦忠
右衛門大夫時廣   前伯耆守親時
前武藏守義氏    相摸守時房
藏人大夫重綱    左馬權助範俊
右馬權助宗保    藏人大夫有俊
前筑後守頼時    武藏守親廣
修理權大夫惟義朝臣 右京權大夫義時朝臣
次官人
泰兼峰 番長下毛野敦秀〔各白狩衣 靑一脛巾 負狩胡録〕
次御車〔檳榔〕 車副四人〔平礼白張〕 牛童一人
次随兵〔二行〕
小笠原次郎長淸〔甲小櫻威〕 武田五郎信光〔甲黒糸威〕
伊豆左衛門尉頼定〔甲萌黄威〕 隱岐左衛門尉基行〔甲紅〕
大須賀太郎道信〔甲藤威〕   式部大夫泰時〔甲小櫻〕
秋田城介景盛〔甲黒糸威〕   三浦小太郎時(朝)村〔甲萌黄〕
河越次郎重時〔甲紅〕     荻野次郎景員〔甲藤威〕
各冑持一人。張替持一人。傍路前行。但景盛不令持張替。
次雜色廿人〔皆平礼〕
次檢非違使
大夫判官景廉
〔束帶 平塵蒔太刀 舎人一人 郎等四人 調度懸 小舎人童各一人 看督長二人 火長二人 雜色六人 放免五人〕
次御調度懸
佐々木五郎左衛門尉義淸
次下臈御随身
秦公氏   同兼村

播磨貞文  中臣近任
下毛野敦光 同敦氏
次公卿
新大納言忠信〔前駈五人〕  左衛門督實氏〔子随身四人〕
宰相中將國道〔子随身四人〕 八條三位光盛
刑部卿三位宗長〔各乘車〕

左衛門大夫光員   隱岐守行村
民部大夫廣綱    壹岐守淸重
關左衛門尉政綱   布施左衛門尉康定
小野寺左衛門尉秀通 伊賀左衛門尉光季
天野左衛門尉政景  武藤左衛門尉頼茂
伊東左衛門尉祐時  足立左衛門尉元春
市河左衛門尉祐光  宇佐美左衛門尉祐長
後藤左衛門尉基綱  宗左衛門尉孝親
中條左衛門尉家長  佐貫左衛門尉廣綱
伊達右衛門尉爲家  江右衛門尉範親
紀右衛門尉實平   源四郎右衛門尉季氏
塩谷兵衛尉朝業   宮内兵衛尉公氏
若狹兵衛尉忠季   綱嶋兵衛尉俊久
東兵衛尉重胤    土屋兵衛尉宗長
境兵衛尉常秀    狩野七郎光廣〔任右馬允除書後同到着云々〕
路次随兵一千騎也

令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拝事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中〔武田五郎信光進先登〕。無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟悪僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰塲之法。人以爲美談。遂悪僧敗北。闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者弥源太兵衛尉〔闍梨乳母子〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。々々無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅〕不能辞退。起座着黒皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟闍梨〔着素絹衣腹巻。年廿云々〕首。是金吾將軍〔頼家〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。々主出居。被見其首。安東次郎忠家取脂燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令着腹巻給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自抜御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。

出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ

次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。」又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)1月27日条

雪の日に出歩くな……実朝の最期

建保7年(1219年)1月27日。この日は晴れていましたが、夜になって雪が二尺(約60センチ)も積もるほど降ってきます。

実朝は右大臣になったことを神仏に報告するため、酉の刻(18:00ごろ)に鶴岡八幡宮寺へ参拝しました。

八幡宮寺拝賀に臨む実朝。

現場の参加スタッフを全員書くのは大変なので、大河ドラマのメインメンバーがどこを受け持ったかをピックアップしましょう。

  • 北条義時(演:小栗旬)……前駈(さきがけ。騎馬で行列を先導)
  • 北条時房(演:瀬戸康史)……前駈
  • 北条泰時(演:坂口健太郎)……随兵(ずいひょう。武装騎兵)
  • 安達景盛(演:新名基浩)……随兵
  • 三浦義村(演:山本耕史)……なし
  • 源仲章(演:生田斗真)……殿上人(ここではゲスト的な特別枠)として参列

その他一千騎が随兵として従いました(名前の載っていない御家人たちは、大半がここに入っているはずです)。

しかし三浦義村がこの列に加わっていないのは何か意図が感じられます(この辺りも、三浦黒幕説を匂わせます)。

さて、いよいよ行列が八幡宮へ入ろうとすると、義時は急に具合が悪くなってしまいました。実朝の太刀持ちを務めなければならないのに……そこで仕方なく仲章に役目を代わってもらい、自身は急遽帰宅することに。

やがて神事を終えた実朝が八幡宮の石段を下りたところ、隠れていた公暁が襲いかかります。

「誰か!誰かある!」

騒動を聞きつけて武田信光(たけだ のぶみつ)ら警護の御家人が駆けつけた時、既に下手人の姿はなく、首のない実朝の遺体と巻き添えで殺された仲章の遺体が転がっていました。

「別当阿闍梨公暁が『父の敵を討った』と名乗りを上げていました」

暗殺を目撃した者の証言を聞いて、御家人たちはさっそく雪ノ下にある公暁の宿舎を襲撃します。

「阿闍梨(公暁)をお守りするのだ!」

果たして宿舎に立て籠もっていた悪僧(僧兵)らと戦闘になり、この時は長尾景茂(ながお かげもち)・長尾胤景(たねかげ)兄弟が先陣を争いました。

長尾兄弟らの活躍もあって悪僧らは退散したものの、既に公暁の行方はわかりません。仕方なく一旦兵を引き上げます。

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乳父に裏切られ……鎌倉殿を夢見た公暁の最期

さて、実朝の首級を抱えて逃げる公暁。後見人の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の館へ逃げ込み、とりあえず食事を出してもらいました。

よほど興奮していたのか、それとも自分の「戦果」を奪われまいと思っていたのか、食事の最中でも抱えた首級は放さなかったそうです。

「よーし。乳父(三浦義村)殿に使いを出すんだ。『いま鎌倉殿に空きができたから、私が代わりに坂東の棟梁となる。ただちに段取りを組むように』とな」

乳兄弟の弥源太兵衛尉(やげんた ひょうゑのじょう)から報せを受けた義村は、源家代々の恩義を思ってしばし落涙します。

公暁を「お迎え」するよう命じる義村(イメージ)歌川国貞筆

「……阿闍梨殿にはこう伝えよ。『喜んでお支え致しますので、まずは当家へお越し下さい。迎えの兵を出しますから』とな」

「ははあ」

その口で義村はさっそく義時に報告。善後策を協議しました。

「どうする小四郎。阿闍梨殿は武勇に優れ、真っ向から討つのは難しいぞ」

さてどうしたものか……協議の結果、長尾定景(ながお さだかげ。長尾兄弟の父)を討手に指名します。

定景は石橋山より多くの戦さを潜り抜けた老勇者。ここで辞退すること及ばず、最後のご奉公とばかり席を立ちました。

力自慢の雑賀次郎(さいが じろう)はじめ腕利きの郎党5名を連れて公暁の元へ急行します。

「お、三浦の迎えが来たか。遅いぞ……って何をする!」

雑賀次郎に抱え込まれた公暁が暴れているところを、定景が太刀をとって公暁の首級を上げたのでした。

公暁は知らなかったのでしょう。三浦の犬は友をも食らう(親族さえも裏切る)ことを。

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大江の目にも涙……乱立していた死亡フラグ

さて、公暁の首級は義村を経て義時に引き渡されました。家人の安藤忠家(あんどう ただいえ)が脂燭(しそく。キャンドル)で照らします。

「面識がないので、本人と言われても判りませんね」

側にいた泰時がそんなことを言いました。乳父の義村なら顔を知っているでしょうが、ここでも彼が事実を申告する保証はありません。

(北条一族が顔を知らないのをいいことに影武者を仕立て、本物は義村が匿っている可能性も)

「それにしても、今日はなんか色々ありましたね」

聞くところによると、実朝が御所を出る前にこんなことがあったと言います。

「……入道よ、このハレ舞台になぜ泣くのだ?」

泣いているのは大江広元(演:栗原英雄)。この時点では病気により出家し、覚阿(かくあ)と号しています(便宜上、以下も広元で統一)。

大江広元。彼の涙を、大河ドラマでも見られるのだろうか(イメージ)毛利博物館蔵

「私は成人してこの数十年間、泣くなどと言ったことがありませんでした。しかし鎌倉殿のそばにお仕えし、今日に限ってはどうにも涙が止まらないのです」

何か胸騒ぎがするのでしょうか。広元は実朝に訴えました。

「お願いです。かつて亡き頼朝公は、東大寺供養に際して御束帯(おんそくたい。束帯は貴族の正装)の下に腹巻(はらまき。鎧の一種で腹部を保護する)を着けて臨まれました。どうか、どうかご用心下されませ……!」

必死の訴えを聞いたものかどうか、実朝は仲章に尋ねます。

「いやいや、仮にも大臣・将軍に昇った方で、そのような前例はございませぬ。ダメです」

それで鎧はつけないことに。また、髻(もとどり)を結い直して貰った例として髪を一本抜き、「これを形見に」と与えました。

更にいよいよ出発という段になって、庭先の梅をお題にこんな和歌を詠んだのです。

出でいなば 主なき宿と なりぬとも
軒端の梅よ 春な忘(わ)するな

【意訳】私が出て行ったら、ここは主人のいない宿となる=もう二度と戻ってこない。それでも梅よ。春を忘れず咲いておくれ。

これは菅原道真(すがわらの みちざね)が太宰府へ左遷される際に詠んだ

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ

【意訳】春風が吹いたなら、香り高く咲いておくれ。私がいないからといって、春を忘れてはいけないよ。

のオマージュ。道真の歌がどことなく春の希望を感じさせる一方で、実朝の方はひたすら悲しみが漂います。

御所の南門を出れば鳩はやたらと啼きさえずるし、牛車を下りれば太刀が当たって折れちゃうし……と縁起の悪いづくめでした。

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終わりに

香朝楼「歌舞伎新狂言 星月夜」

以上、ごくざっくりと実朝暗殺を追ってみました。翌1月28日、御台所の千世(演:加藤小夏。坊門姫)は出家、ほか多くの御家人たち(百余名)も共に出家します。

今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰剋。御臺所令落餝御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衛門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌剋。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。

※『吾妻鏡』建保7年(1219年)1月28日条

ところで、実朝の首級はどこへ行ってしまったのか見つからず、仕方ないので昨日形見として抜いた一本の髪を頭代わりに納棺したということです。

(首がないまま=五体が十分に揃っていないと成仏できないため、何でもいいから納得できる代わりを用意する必要がありました)

かくして「主なき宿(鎌倉殿がいない状態)」となってしまった鎌倉。この難局を乗り切れるのは、もはや尼御台・政子(演:小池栄子)を措いていません。

果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この名場面をどのように描き上げるのか、三谷幸喜のアレンジに注目です。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月

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