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数々の戦場をくぐり抜けた戦国の名将・馬場美濃守が語る「無傷のコツ」とは?

古典文学
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人間、カッとなると周囲が見えなくなりやすいもので、それは戦国時代の武将たちも同じでした。

ましてや互いに殺意をもって敵と向き合う戦さ場なれば、極度の興奮状態であったことは想像に難くありません。

そうでなければ人を殺すなんてとても出来ない反面、とかく勝負ごとというものは「熱くなった方が負け」な側面もあります。

戦うために闘志を燃やし、勝つために闘志を制御する……数々の修羅場をくぐり抜けた歴戦の勇士であってもそれは難しい課題だったようです。

そこで今回は、武士道のバイブルとして有名な『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』から、戦場における極意を語ったエピソードを紹介したいと思います。

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馬場美濃守、かく語りき

今は昔、とある武士が、馬場美濃守(ばば みののかみ。信春)にこんな質問をしたそうです。

「戦場で敵の中へ斬り込んでいく時、周囲が真っ暗闇のように感じて何も見えなくなり、そのためか何度も負傷している。一方で馬場殿は、数々の武勲を重ねながら一度として傷を負ったことがない。何ぞ心得でもおありか」

これに対して、美濃守はこう答えました。

恵林寺蔵「馬場美濃守肖像」

「確かに、それがしも敵中へ斬り込む時は、周囲が真っ暗に感じるものだ。そういう時は少し落ち着くと薄月夜くらいには視界が利くようになるから、その上で斬りかかれば、負傷などせずにすむ」

……なるほど、さすが言うことが違う。

【原文】

甲陽軍鑑に、何がし、「敵に向ひたる時は、くらやみに入り候樣に覚え候。それ故か手疵あまた負ひ候。御自分は數度の高名に疵を負はれぬ事、何と召され候や。」と尋ね申し候。何某返答に、「敵に向ひたる時は、成程闇になり申し候。その時、すこし心をしづめ候へば、薄月夜の樣になり申し候。それより切りかヽり候へば、疵などは負はぬと覚え候。」時の眞の位あるべき事なり。

この返答、馬場美濃守なり。委しく古老物語に見えたり。

※『葉隠聞書』巻十・九三より。

要するに「ちょっと冷静になって状況を判断すれば、敵の太刀筋は見極められるから、負傷などしない」……とまぁ、実にサラッと言ってのける美濃守ですが、いや、だから「それが難しいんだろうが」という話です。

しかし、この美濃守は甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田家三代(信虎・信玄・勝頼)に仕え、70数度と言われる合戦で武勲を重ねながら、かすり傷一つ負わなかったそうですから、相応の実力を備えていたのは間違いないでしょう。

一方、質問をした武士にしても、暗闇のようだと思っても恐怖を克服して敵中へ斬り込み、何度手傷を負っても戦い、生き抜いていることから、こちらも歴戦の勇士であったことが察せられます。

エピローグ

その強さから「鬼美濃」と恐れられた馬場美濃守でしたが、信玄公の死から間もない天正3年(1575年)5月21日、世に言う長篠の合戦において討死してしまいました。

長篠の合戦と言うと、武田の騎馬軍団が織田信長(おだ のぶなが)の鉄砲に敗れ去ったイメージが強いものの、美濃守は鉄砲で撃たれた訳ではなく、撤退する主君・勝頼を守るべく殿軍(しんがり)を務め、少数精鋭で織田の大軍を食い止めています。

歌川豊宣「新撰太閤記 馬場美濃守」

美濃守は勝頼が本拠地の甲斐国まで逃げ延びたであろう頃合いを見計らって、自ら首級を差し出したそうです。

「馬場美濃守手前の働き、比類なし」

※太田牛一『信長公記』より。

敵ながら誠にあっぱれ……信長の激賞も納得な美濃守の強さと潔さは、武士の鑑として後世に伝えられています。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月
歴史群像編集部編『戦国驍将・知将・奇将伝 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学研M文庫、2007年1月

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