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「つるばみ色のなぎ子たち」筆も使ひ果てて、これを書き果てばや……清少納言の随筆『枕草子』書名の由来は【光る君へ】

古典文学
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筆も使ひ果てて、これを書き果てばや
この草子は、
目に見え心に思ふ事を、
人やは見むずると思ひて、書き集めたるを

※映画『つるばみ色のなぎ子たち』パイロットフィルム(YouTube)より

【意訳】筆をつぶしてでも、すべてを書き尽くしたいのです。この本は、私が目に見たすべてを。心に思ったすべてを。よもや人が見ることはないからと腹を括って、書いたすべてを集めたものです。

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『枕草子』書名に込められた想い

清少納言。菊池容斎『前賢故実』より

……これは清少納言の随筆として知られる『枕草子』について本文中で語った部分。厳密にはこちら。

物暗うなりて、文字も書かれずなりにたり。筆も使ひ果てて、これを書き果てばや。
この草子は、目に見て心に思ふ事を、人やは見むずると思ひて、つれづれなる里居のほど、書き集めたるに、あいなく人のため便(びん)なき言い過ぐしなどしつべき所々あれば、清う隠したりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ

※清少納言『枕草子』

【意訳】薄暗くなってきたので、手元の文字も書けなくなってしまった。まだ書きたいことがたくさんあるのに。ここにある筆をすべてつぶしてでも、すべてを書き尽くしたいのに。この本は私が目で見たすべてを。心に思ったすべてを、誰が見ようとお構いなしに。故郷で鬱屈を抱えながら、書き集めたもの。人が聞いたら過激に思うかも知れないところもあるだろう。何とか清らかな体裁を取り繕いたいけれど、どうしてもあふれてしまう。古人が「涙せきあへず」と詠んだように。

……この「涙せきあへず」とは『古今和歌集』第十三・恋歌三に収録された平貞文(たいらの さだふん)の歌に由来します。

枕より 又しる人も なきこひを なみだせきあへず もらしつる哉

※『古今和歌集』第十三・恋歌三 平貞文

【意訳】私の恋は、独りで寝る枕しか知らないのだ。亡き人を想ってはせき止めようもなく漏れてしまう涙のしみた、この枕しか……。

いつも明るくマイペース、どこまでもゴーイングマイウェイだった清少納言が、終生想い続けた主君・藤原定子(ふじわらの ていし/さだこ)。

敬愛する定子を喪った後も、ずっと明るく振る舞い続けた清少納言が『枕草子』と名付けたこの随筆には、まさに涙がしみ込んでいるようです。

辛いからこそ、明るく元気に生きていく。そんな彼女の姿が、千年の歳月を越えて人々を魅了し続けるのではないでしょうか。

ちなみに、タイトルの「なぎ子」はご存じの方も多いでしょうが、清少納言の実名とされている諾子(なぎこ。清原諾子)が由来です。

まだ本作「つるばみ色のなぎ子たち」は視聴していませんが、実にしみじみと味わい深い作品であろうと楽しみにしています。

清少納言(清原諾子)・略年表

清少納言。上村松園筆

康保3年(966年)ごろ 清原元輔の娘として誕生

天延2年(974年) 父の周防守(山口県東部)赴任に同行、4年ほど暮らす

天元4年(981年)ごろ 橘則光と結婚

天元5年(982年) 長男の橘則長を出産

時期不詳 則光と離婚するが、長徳4年(998年)まで交流

時期不詳 藤原棟世と再婚、長女の小馬命婦を出産

正暦4年(993年)ごろ 藤原定子(一条天皇中宮)に仕える

長保2年(1000年) 定子が出産で亡くなり、宮中を去る

※その後の動向は不明。藤原棟世と共に暮らしたものと考えられます。

清少納言(清原諾子)・基本データ

清少納言。土佐光起筆

生没 生没年不詳

両親 父:清原元輔 母:不詳
※元輔の正室に周防命婦と呼ばれる女性がいるが、赴任後に娶ったものと考えられるため、赴任以前に生まれた清少納言の実母である可能性は低いと見られる。

兄弟 清原為成・清原致信・戒秀(僧侶)・清原正高・清少納言・女子(藤原理能室)

伴侶 先夫:橘則光/後夫:藤原棟世

子女 長男・橘則長/長女:小馬命婦

主君 藤原定子

著作 『枕草子』

終わりに

暗くなってしまい、もう文字が書けない。もっとたくさん書きたいことがあるのに……そんな人生の焦燥感は、共感できる方も多いのではないでしょうか。

『枕草子』。一見するとごく静かなその書名には、とても眠れたものじゃない感情の沸騰する熱さが滾(たぎ)るようです。

気づけばあっという間に終わってしまう人生で、見たモノや感じたコトすべて、筆を使いつぶして書き果たしたい。

嵐のような胸中を抱えて生きた彼女の魅力を、また改めて紹介したいと思います。

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