よく「愛さえあれば〇〇なんて……」などとは言いますが、実際には色んな障壁や妨害があって、なかなか思いは実らないのが世の常というもの。
この世で結ばれないのであれば、せめてあの世で……と心中する者がいれば、葛藤の末に未練を断ち切って別々の道を歩む者や、あるいは何らかの形で思いを遂げようとする者もいたことでしょう。
そこで今回は『平家物語(へいけものがたり)』より、女官と武士が身分違いの恋に落ちたエピソードを紹介したいと思います。
せめて共に仏の道を……
今は昔、斎藤時頼(さいとう ときより)という滝口武者(たきぐちのむしゃ)がおりました。
滝口武者とは内裏を警護する武士で、側溝の水が滝のように流れる滝口に控えていたためそう呼ばれたのでした。治承4年(1180年)に安徳天皇(あんとくてんのう。第81代)が即位された時、母の伝手(※)で取り立てられたと言います。
(※)斎藤時頼の母は平時忠(たいらの ときただ。平清盛の正室・時子の弟)の正室である藤原領子(ふじわらの むねこ)の乳母でした。※『福井県史』より
この斎藤時頼がある時、主君・平重盛(たいらの しげもり)の妹である建礼門院(けんれいもんいん。高倉天皇の皇后・平徳子)の雑仕女(ぞうしめ。召使い)である横笛(よこぶえ)に一目ぼれしてしまいました。
思い立ったら即行動……そんな斎藤時頼の一途さに横笛も惹かれ、めでたく相思相愛となった二人ですが、片や滝口武者、片や雑仕女とは言え皇后陛下に仕える身とあって、身分差は歴然。
(※)かつて武士たちは「地下人(じげにん)」と呼ばれ、卑しまれていました。
ここで横笛をさらって駆け落ち……とドラマチックに行きたい斎藤時頼ですが、現実的に考えれば行き詰まるのは目に見えているし、彼女の幸せを考えるのであれば、潔く身を引いた方が良かろう……そう考えた時頼は未練を断ち切るべく出家、滝口入道と呼ばれます。
自分を諦めて仏門に帰依してしまった……斎藤時頼の出家を知った横笛は、彼が入った法輪寺(ほうりんじ。京都市西京区)を訪ねますが、滝口入道は「修行の妨げになるから」と涙ながらに彼女を追い返しました。
山深み 思い入りぬる 柴の戸の
高山樗牛『滝口入道』より
まことの道に 我を導け
横笛は都へ戻る道中、自分の指を切り、その血をもって近くの岩にこう書き記したそうです。
その意味するところは「あなたは真実を求めて仏の道を行ってしまいましたが、どうか(私を拒絶するために閉じてしまった)柴の戸を開いて、私も仏の道へお導き下さい」というもので、取り残されてしまった横笛の孤独感が伝わってきます。
後に横笛は入水自殺したとも奈良の法華寺(ほっけじ。現:奈良県奈良市)で出家したとも言われ、それを知って未練を断ち切った滝口入道はますます修行に励み、ついには高野山大円院(だいえんいん。現:和歌山県高野町)の住職を務めるまでに徳を高めたのでした。
終わりに
そんな二人の悲恋は数百年の歳月を越えて伝えられ、明治26年(1894年)には作家の高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)が小説『滝口入道』を執筆、今でも多くの人々に愛されています。
また、横笛の出家姿を伝える像が横浜三渓園にあったとされ、一説には斎藤時頼から送られた恋文をもって作られた(紙粘土のように造形した?)とも言われていますが、昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲で失われてしまったそうです。
奈良の法華寺にも似たような像が伝わっているそうで、横笛は自ら命を絶つことなく、滝口入道と共に仏の道を選んだものと期待させます。
誰であろうと、仏の前ではみな同じ……二人の思いは、きっと結ばれたことでしょう。
※参考文献:
- 大津雄一ら編『平家物語大事典』東京書籍、2010年11月
- 高山樗牛『滝口入道』ゴマブックス、2016年7月
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