NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、皆さんも観てますか?
第13回「幼なじみの絆」では、北条時政(演:坂東彌十郎)が伊豆へ引っ込んでしまった隙に乗じて、比企能員(演:佐藤二朗)とその妻・道(演:堀内敬子)夫婦が権力への野心を燃やします。
そのためには「鎌倉殿」源頼朝(演:大泉洋)はじめ源氏一門と接近することが不可欠です。
能員「(源氏一門に)送り込むか……娘たちを」
道「食い込むのです。ぐいぐいと(能員のほっぺたを指先でぐいぐい)」
二人はさっそく二人の養女を頼朝の異母弟である源範頼(演:迫田孝也)と源義経(演:菅田将暉)に紹介しました。
常(演:渡邉梨香子)と里(演:三浦透子)……彼女たちは頼朝の乳母である比企尼(演:草笛光子)の孫娘です。
比企夫妻の意図を感じ取った範頼はキッパリ断った一方で、義経の方は女性慣れしていなかったのか、里に心惹かれて一夜を共に。
……その後の展開は割愛しますが、果たしてこのエピソード、史実ではどうだったのでしょうか。
今回は里のモデルになったと思われる郷御前(さとごぜん)の生涯をたどっていきましょう。
嫁いだ夫は英雄そして叛逆者に……
郷御前は平安末期の仁安3年(1168年)、武蔵国の豪族・河越重頼(かわごえ しげより)の娘として誕生しました。
本名は不詳、母は比企尼の次女である河越尼(かわごえのあま。本名不詳)。元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により京都の代官を務めていた義経の元へ正室として嫁ぎます。
元暦元年九月小十四日庚子。河越太郎重頼息女上洛。爲相嫁源廷尉也。是依武衛仰。兼日令約諾云々。重頼家子二人。郎從三十餘輩從之首途云々。
※『吾妻鏡』元暦元年(1184年)9月14日条
この時期、義経は無断任官(頼朝の許可なく朝廷より官位を受けたこと)で頼朝の怒りを買っていたことから、監視役としてつけられたとの説もあるとか。
しかし『吾妻鏡』に兼日令約諾(かねてやくだくせしむ)とあるので、結婚自体は事前から決まっていたようです。
また、鎌倉の北方を守る武蔵国内において河越重頼が大きな勢力を築いていたこともあり、その娘を嫁がせたことは義経に対する厚意であったとする説もあります。
結婚後、義経は平家討伐に乗り出して武功を重ね、ついに元暦2年(1185年)に壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼしました。
晴れて京都へ凱旋した義経。郷御前も夫の活躍が誇らしかったことでしょう。
しかし周囲の御家人たちとの不和によって義経は陥れられ、ついに頼朝から勘当されてしまいます。
義経は何とか和解しようと、平家の捕虜を護送する名目で鎌倉へ向かったものの、鎌倉入りを許されませんでした。
その仕打ちに怒った義経は頼朝との断交を宣言。兄弟の不和につけ込む後白河法皇や、かねて頼朝が気に入らない叔父の源行家(ゆきいえ)らにそそのかされて謀叛を起こします。
事ここに至っては頼朝も看過できず、後白河法皇に圧力をかけて義経追討の宣旨を要求。義経は京都を追われることになってしまいました。
郷御前にしてみれば、嫁いで間もなく夫が英雄になったかと思ったら、たちまち叛逆者に転落。この短期間で実に浮き沈みが激しく、気が休まらなかったことでしょう。
奥州への逃避行、そして悲劇の最期
さて、逃げると決まれば一刻の猶予もありません。
まず義経は海を渡って九州へ向かおうとしますが、逆風が強すぎて出航できず断念。この時点では郷御前を伴っていないことから、まず別々に逃げて後に合流する計画だったものと考えられます。
……相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女〔字靜〕一人也。……
【意訳】予洲(伊予守。義経)に従う者は4名。いわゆる伊豆右衛門尉(いず うゑもんのじょう。源有綱、義経の娘婿)、堀弥太郎(ほりの やたろう)、武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)そして静(しずか。静御前)という愛妾が1名。
※『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月6日条
かくして義経一行は追手を逃れて各地を転々とし、かつて自分を庇護してくれた奥州の藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼りました。
文治三年二月小十日壬午。前伊豫守義顯日來隱住所々。度々遁追捕使之害訖。遂經伊勢美濃等國。赴奥州。是依恃陸奥守秀衡入道權勢也。相具妻室男女。皆假姿於山臥并兒童等云々。
※『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日条
この時に連れていた義経の家族は、妻室(正室の郷御前)と子供が男女一人ずつ。男の子は逃亡中に生まれたとされています。
しばらく秀衡によって保護された義経たちですが、やがて秀衡が没して藤原泰衡(やすひら)が家督を継承すると、頼朝の圧力に屈して義経を攻め滅ぼしてしまいました。
文治五年閏四月卅日已未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戰。与州家人等雖相防。悉以敗績。豫州入持佛堂。先害妻〔廿二歳〕子〔女子四歳〕次自殺云々。
【意訳】この日、奥州にて藤原泰衡が義経を襲撃。かねて朝廷から命令があり、また頼朝の要求に屈した結果であった。
※『吾妻鏡』文治5年(1189年)閏4月30日条
義経は衣川にある藤原民部少輔基成(みんぶのしょうゆう もとなり)の館に滞在している。
数百騎で襲来する泰衡の軍勢を皆で必死に防いだが、もはや勝ち目なしと観念した義経は、持仏堂に入って郷御前(22歳)と娘(4歳)を殺してから自害した。
……この記述から郷御前は仁安3年(1168年)生まれ、娘は文治2年(1186年)生まれと逆算できます。
実は生きていた?義経とその男児の伝承
ところで、奥州入りに際して連れていた(逃避中に生まれた)男子はどうなったのでしょうか。
伝承地によって千歳丸(ちとせまる)や鶴亀御前(つるかめごぜん)などと名づけられた男子は、この日(滅亡の危険性)があることを予見した秀衡のすすめでよそへ預けられたという伝承があり、御家再興の望みが託されています。
伝承によると、千歳丸は元服して中村蔵人義宗(なかむら くろうどよしむね)と名乗りました。
しかし蔵人が「九郎」、義宗は「義」経を連想させるとして、鎌倉幕府への遠慮から中村左衛門尉朝定(さゑもんのじょう ともさだ)と再び改名。その後は鎌倉幕府の御家人としてその命脈をつないだと言います。
また、義経自身についても身代わり伝説があり、家来の杉目太郎行信(すぎのめ たろうゆきのぶ)が影武者となって首級を差し出したとか。
閏4月30日に自害した義経の首級が鎌倉へ届けられたのは6月13日。いくら遠くても平泉(衣川)から鎌倉まで、徒歩だってそんなにはかかりません。
初夏から夏(太陽暦で6~8月)にかけてゆっくりゆっくり運ばれた首級は、すっかり腐敗してボロボロ。
……件首納黒漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糧。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。
※『吾妻鏡』文治5年(1189年)6月13日条
首実検に立ち会った和田義盛(わだ よしもり)や梶原景時(かじわらの かげとき)はじめ、御家人たちが涙に袖を濡らした(皆拭雙涙。濕兩衫)のは、その激臭ゆえかと考えられます。
晴れて自由の身となった義経とその息子は蝦夷地(現:北海道)そしてユーラシア大陸へ渡ってモンゴル帝国の覇者チンギス・ハーンに成り代わる……そんな壮大な伝説が生み出されたのでした。
もしそこまでできるなら郷御前も娘も連れて行けただろうに……と思えなくもありませんが、実際のところはどうなんでしょうね。
終わりに
郷御前の墓は金鶏山(岩手県平泉町)の麓にあり、義経の(ものとされる)墓と仲良く並んでいます。
義経の伴侶と言えば静御前の方が有名でしょう。しかし最期までけなげに添い遂げた郷御前の存在は、義経にとって決して小さなものではなかったはずです。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では三浦透子さんが演じる里。果たしてどんな女性に描き上げられるのか、三谷幸喜の脚本を楽しみにしています。
※参考文献:
- 上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』文英堂、2004年9月
- 細川涼一『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年3月
- 山崎純醒『源義経周辺系図解説 『義経北紀行伝説』を読み解く』批評社、2016年11月
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