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【鎌倉殿の13人】高橋侃が演じる結城朝光ってどんな御家人?その生涯をたどる【前編】

平安時代
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頼朝の烏帽子子 結城朝光

下野の大豪族である小山政光の息子。母は源頼朝の乳母である寒河尼。頼朝が烏帽子親となり、元服した。

※登場人物 結城 朝光(高橋侃)|NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

源頼朝(みなもとの よりとも)の側近として活躍した結城朝光(ゆうき ともみつ)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では頼朝が亡くなるまで登場しなかったため、まさかの割愛!?と思っていたところ、そろそろ出番が回ってくるようです(良かった良かった)。

高橋侃が演じる結城朝光。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

公式HPの紹介にもある通り、結城朝光は下野国(現:栃木県)の大豪族・小山政光(おやま まさみつ)の子で、兄には中村敦さんの演じる小山朝政(ともまさ)がいます。

母親の寒河尼(さむかわのあま)は頼朝の乳母も務めており、朝光と頼朝は烏帽子親子であると共に乳兄弟の関係でもあります。

烏帽子を通して結ばれる、親子の絆(イメージ)

この烏帽子親子というのは、元服(成人)に際して成人男性の証しである烏帽子(えぼし)を被せる(烏帽子親)/被せられる(烏帽子子)関係。時として実の親子以上に強い絆で結ばれたのでした。

今回は、大河ドラマで高橋侃さんが演じる結城朝光の生涯をたどっていきたいと思います。

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頼朝の烏帽子子として寵愛を受ける

結城朝光は平安時代末期の仁安3年(1168年)に誕生しました。

幼名は一万丸(いちまんまる)。兄弟には小山朝政・吉見朝信(よしみ とものぶ)・長沼宗政(ながぬま むねまさ)・久下重光(くげ しげみつ)・島田政照(しまだ まさてる)などがいます。

兄弟ごとに苗字が違って違和感があるものの、それだけ多くの所領を治め、一族が繫栄した証しと言えるでしょう。

そんな兄弟の中で育った一万丸は治承4年(1180年)10月2日、伊豆で挙兵した頼朝の元へ駆けつけて元服。その烏帽子子となります。

頼朝子飼いの側近として活躍した朝光。菊池容斎『前賢故実』より

通称は七郎、頼朝の朝と父・政光の光を一字ずつ拝領して朝光と改名しました。以来頼朝の側近として可愛がられた朝光は養和元年(1181年)4月7日、頼朝の寝所を警護する11名に抜擢されました。

【頼朝の寝所警護メンバー】
宇佐美平次実政(うさみ へいじさねまさ。伊豆国の豪族・挙兵以来の古参)
江間四郎(えま しろう。後の北条義時)
葛西三郎清重(かさい さぶろうきよしげ。下総国の豪族)
梶原源太景季(かじわら げんたかげすえ。梶原景時の長男)
下河辺庄司行平(しもこうべ しょうじゆきひら。朝光の従弟)
千葉太郎胤正(ちば たろうたねまさ。千葉介常胤の長男)
八田太郎知重(はった たろうともしげ。八田知家の子)
榛谷四郎重朝(はんがや しろうしげとも。畠山重忠の従弟)
三浦十郎義連(みうら じゅうろうよしつら。三浦義澄の末弟)
和田次郎義茂(わだ じろうよししげ。和田義盛の弟)

そして七郎朝光。新進気鋭の若武者たちが勢ぞろい、彼らは後に鎌倉武士団の中枢を支える同僚となったのでした。

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「武士の鑑」畠山重忠を尊敬、文武に精進を重ねる

頼朝の側近として忠勤に励んだ朝光は御剣役を10回にわたって務めるなど信頼も厚く、後に下総国結城郡(現:茨城県結城市一帯)に所領を賜ったため結城朝光と称します。

とかく頼朝のそば近くにいた印象の強い朝光ですが、戦場にも従軍。元暦元年(1184年)の木曽義仲(きそ よしなか)追討をはじめ、元暦2年(1185年)に壇ノ浦で平家を滅ぼすまで戦歴を重ねました。

弓の達人としても知られ、和歌にも通じた文武両道の士として声望を高めていきます。

強さと高潔さを兼ね備えた重忠は、武士たちの憧れであった。

そんな朝光は「武士の鑑」として畠山重忠(はたけやま しげただ)を尊敬しており、文治3年(1187年)に重忠が謀反の疑いをかけられた時、その弁護に立ちました。

朝光申云。重忠天性禀廉直。尤弁道理。敢不存謀計者也。然者。今度御氣色。依代官所犯之由。令雌伏畢。其上殊怖畏神宮照鑒之間。更不存怨恨歟。謀叛條。定爲僻事歟。被遣專使。可被聞食其意者。

【意訳】重忠は道理を弁えた天性の正直者。謀反など企むはずがありません。そもそも此度の騒動も重忠本人ではなく代官の不始末ゆえ。また常々「お天道様が見てござる」と行いを謹んでおり、つまらぬ野心を起こすような人間ではありません。謀反なんて僻事(ひがごと。誰か≒梶原景時が重忠を陥れようとしているだけ)に決まっています。どうか使者を遣わして、重忠殿の真意をお確かめ下され。

※『吾妻鏡』文治3年(1187年)11月15日条

果たして重忠の潔白は証明され、その後も武功を重ねました。朝光も文治5年(1189年)の奥州合戦では阿津賀志山で敵将・金剛別当秀綱(こんごう べっとうひでつな)を討ち取り、翌建久元年(1190年)には大河兼任(おおかわ かねとう)の反乱を鎮圧。

この年、正室である伊賀朝光女(いが ともみつのむすめ)との間に嫡男・結城朝広(ともひろ)をもうけます。

公私ともに充実した日々を送る中で、朝光は着実に成長していくのでした。

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さわやかな弁舌で、荒ぶる僧兵たちを感服させる

そんな朝光がより名を高めたのが建久6年(1195年)3月12日。

頼朝が東大寺の再建供養で参列していたところ、警護の武者たちが寺の僧兵たちともめごとを起こします。その理由は詳らかでないものの、おおかた誰がどけだのぶつかっただの、しょうもないことが発端だったのでしょう。

荒ぶる僧兵たち(イメージ)

ハレの供養に何てことを……まずは梶原景時(かじわら かげとき)がこれを鎮めるべく指示したものの、高圧的な態度が火に油を注いでしまいました。

「……七郎」「ははあ」

見かねた頼朝は朝光に仲裁を命じます。

「……前右大将家(頼朝)の使いである」

あくまでも丁寧でありながら威厳に満ちた朝光の立ち居振る舞い。気圧された僧兵らは、自然と黙り込みました。

「かつて平家に焼かれ、灰燼に帰したこの東大寺を前右大将家が再建に尽力し、今日の落慶を見た。我ら無知蒙昧なる武者どもも、此度の結縁を心から誇りとして警護にご奉仕している。この喜ぶべきハレの日を、知恵も学問も深いあなたがたが台無しになさろうと言うのはどういうことか(意訳)」

朝光の言葉に我に返る僧兵(イメージ)

あまりの正論に僧兵たちは自らの行いを恥じ入り、気づけば騒ぎは収まってしまいました。数千人の武者と僧兵たちが一斉に静まり、朝光に対して称賛の声が上がります。

今まで野蛮一辺倒とばかり思っていた坂東武者の中にも、こんな人格者がいるなんて……「容貌美好、口弁分明(姿形が美しく、弁舌さわやかに道理を弁えている)」な朝光のお陰で、その主君たる頼朝はいっそう評判を高めたということです。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 七宮ケイ三(さんずいに幸)『下野 小山 結城一族』新人物往来社、2005年11月
  • 野口実『東国武士と京都』同成社、2015年10月
  • 松本一夫『下野中世史の世界』岩田書店、2010年5月

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