民衆の心をつかむ一向宗徒のカリスマ
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
空誓上人 くうせいしょうにん
[市川右團次]
家康が三河統一に苦心する中、人々の心をわしづかみにする本證寺の住職。民が苦しむのは武士のせいだと説き、寺の中に巨大な町をつくり、商人を呼び寄せ、集まる民衆たちを救済する。対立を深めた家康は本證寺に攻め込み、一向一揆の引き金をひいてしまう。
松平元康(演:松本潤。徳川家康)の生涯における三大危機の一つ「三河一向一揆(永禄6・1563~同7・1564年)」。忠義と信仰の板挟みになった家臣たちのじつに半数ばかりが寝返ってしまうほどの大混乱だったと言います。
その発端は元康が本證寺(愛知県安城市)はじめ、一向宗(浄土真宗本願寺派)各寺院が持つ宗教利権の解体を図ったことと言われ、家康の三河支配を盤石にする上で避けられない試練でした。
今回は本證寺の住職で三河一向一揆の主導者であった空誓上人(演:市川右團次)を紹介。果たして彼は、どんな人生を送ったのでしょうか。
まるで武蔵坊弁慶!鉄棒を振り回して奮戦
空誓上人は生年不詳。父は実誓(じっせい。堅田慈敬寺四世)、母は四条隆永女(しじょう たかなが。権大納言の娘)と言います。
永禄4年(1561年)に本證寺九世の玄海(げんかい)が加賀一向一揆へ加勢のため遠征中に討死したため、招かれて本證寺十世(第10代目住職)となりました。
住職となって間もない永禄6年(1563年)に松平家との利権争いが勃発、これが激化して三河一向一揆に発展します。
一向門徒は信仰の力をもって善戦、豪傑であった空誓も自ら鉄棒を振り回して奮闘したとか。まるで武蔵坊弁慶みたいですね。
しかし最終的には敗退、同志の順正(じゅんしょう。桜井円光寺十四世)が身代わりに自害することで命からがら逃げ延びました。
次第に勢いの衰えた一向門徒は永禄7年(1564)に和議を締結。一揆に加担した本願寺派の諸寺院は片っ端から破却され、空誓も本證寺を追われます。
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本證寺を復興、徳川家に取り入る
永き雌伏の20年を経た天正11年(1583年)、家康は三河国内の本願寺派寺院の復興を許可。これでめでたし……かと思いきや、空誓上人は詐欺事件を起こしていました。
何と家康の許しが出たと偽って徳川家と本願寺派の仲介を担っていた本多重次(ほんだ しげつぐ)の書状を改竄。勝手に道場を建立してしまったのです。
仏に仕える身でありながら、何と不届きな……本多重次は本願寺に猛抗議し、本證寺の処罰を求めました。
そんなトラブルもあったものの、天正13年(1585年)に本證寺は何とか復興を果たし、諸役免除などの利権も回復します。
以後は徳川家に取り入り、晩年になると家康の九男・徳川義直(よしなお。尾張藩主)の補佐を任されました。
さっそく尾張の清州城へ赴任した空誓上人は義直に祝辞を述べたことがキッカケで、本證寺の歴代住職は藩主・住職の交代に際して登城謁見を許されるようになったそうです。
空誓上人の没年は不明、その法統は後世へ受け継がれていきました。
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終わりに
以上、ごく駆け足で空誓上人の生涯をたどってきましたが、NHK大河ドラマ「どうする家康」ではどの辺りまで登場するのでしょうか。
市川右團次さんの熱演にも注目、まるで武蔵坊弁慶さながらの大立ち回りが楽しみですね。
※参考文献:
- 新行紀一『一向一揆の基礎構造 三河一揆と松平氏』吉川弘文館、2017年10月
- 新編岡崎市史編さん委員会『新編岡崎市史 中世』岡崎市、2002年7月
- 安城市史編さん委員会『安城市史』安城市、1971年2月
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