織田信長(おだ のぶなが)と言えば即断即決・頭脳明晰、従来の権威や権力をためらいもなく破壊して、新時代を切り拓く改革者として知られています。
時は戦国乱世とあって、数々の戦場を駆け抜けた信長。その初陣はどのようなものだったのか、実に興味深いところです。
そこで今回は当時の一級史料『信長公記(しんちょうこうき。信長側近・太田牛一の手記)』より、信長の初陣エピソードを紹介したいと思います。
御手遣所々放火候て……
吉法師殿十三の御歳林佐渡守平手中務青山與三右衛門内藤勝介御伴申古渡ノ御城にて御元服織田三郎信長と進められ御酒宴御祝儀不斜
※『信長公記』「吉法師殿御元服之事」
翌年 織田三郎信長 御武者始として平手中務丞其時の仕立くれなゐ筋のつきんはをり馬よろひ出立にて駿河より人数入置は三州之内吉良大浜へ御手遣所々放火候て其日ハ野陣を懸させられ次日那古野に至て御帰陣
【意訳】時は天文15年(1546年)、吉法師殿は13歳の時に古渡城にて元服。林秀貞(はやし ひでさだ。佐渡守)・平手政秀(ひらて まさひで。中務)・青山信昌(あおやま のぶまさ。与三衛門)・内藤勝介(ないとう しょうすけ)がお供して、織田三郎信長と改名。お祝いの酒宴は斜めならず盛り上がった。
翌天文16年(1547年)、信長は武者始(むしゃはじめ。初陣)として平手政秀の仕立てた紅筋(くれないすじ)の頭巾と羽織を身にまとい、馬にも鎧を着せて出陣。今川方が兵を配置していた三河国の吉良大浜(愛知県碧南市)へ兵を進め、各所へ火を放ってその日は野営。翌日に本拠地・那古野城へ帰投した。
……これだけ聞くと「何だ、敵地へ火を放ってきただけか。意外に地味だな」と思ってしまうかも知れません。しかし火攻め焼討ちは戦さの基本。どんな豪傑も焼かれれば死んでしまいますし、強風などで延焼すれば敵に甚大な損害を与えられます。
もちろん風向きや取扱いを誤れば自分たちが窮地に陥るリスクもありますが、それも考慮の上で効率的な場所へ点々と火を放ったのでしょう。
少ない兵力でより効果的に敵に損害を与えるか。戦さとは一回ワッと戦っておしまいではなく、相手の呼吸を読みながらジワジワと力を削ぎ、ここ一番の好機を待つのがセオリーと言えます。
派手なイメージの信長ですが、こうした地味な基本を地道に押さえることで、後に大胆な戦略に乗り出せたのではないでしょうか。
※参考文献:
- 柴裕之 編『尾張織田氏 論集 戦国大名と国衆6』岩田書院、2011年11月
- 『信長公記 巻之上』国立国会図書館デジタルコレクション
スポンサーリンク
コメント