去年の話になりますが、令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」皆さんも観ていましたか?
筆者も毎週楽しみに、画面をかじりつくように観ていました。
その劇中、富士の巻狩りでのこと。源頼家(頼朝嫡男)が獲物を射止められず、代わりに北条泰時(義時長男)の射止めた小鹿を頼家が射止めたことにしたエピソードをご記憶でしょうか。
頼家の心中を思うと我がことのように悔しく感じたものですが、実際の記録『吾妻鏡』を読むと、頼家はちゃんと獲物を射止めていました。よかったですね。
それでは、泰時が初めて獲物を射止めたのはいつのことでしょうか。
『吾妻鏡』にその時の記録がしるされていたので、今回紹介したいと思います。
箭祭の様子と、御家人たちの作法
時は建久4年(1193年)9月7日の朝6:00ごろ、江間に帰っていた泰時(幼名は金剛)が1頭の小鹿を仕留めました。
9月10日に鎌倉へ戻り、9月11日に御所へ参上します。
「おぉ、金剛。でかしたぞ!」
献上された獲物を見て義時(厳閤)は大喜びし、さっそく箭祭(やまつり)のお供え餅(矢口餅)を用意しました。
箭祭とは武士の子が初めて射止めた獲物を山の神様に奉げ、神様から一人前の武士と認めていただく大切な儀式です。また「矢口の祝い」「山口の祝い」などとも呼ばれます。
西の侍所で会場設営を完了すると、将軍家(頼朝)もやってきました。
「おぉ、金剛。でかしたぞ!」
昔から可愛がってきた金剛が仕留めた初の獲物に、頼朝も大満足です。
足利義兼(上総介)や山名義範(伊豆守)ら重鎮たちも列席する厳粛な空気の中、箭祭の儀式が始まります。
箭祭はまず十字を供え(手刀を切る作法?)、続いて矢口餅と呼ばれるお供え餅を食うのですが、その作法は家ごとに異なりました。
小山朝政:餅を3口に分けて食う時、1口目の後に声を発し、2〜3口目は黙って食う。
三浦義連:餅を3口に分けて食い、1口目から3口目まですべて声を発する。
諏方盛澄:餅を3口に分けて食い、その間一言も声を発しない。
今回の順番(一口、二口、三口と言います)は将軍家の指名によりましたが、一緒に狩りに出ていれば猟果の順、そうでなければ占いや日頃の腕前などで決められたそうです。
「それにしても、十字の含み方や声の上げ方など、家ごとに作法が違って興味深いな」
将軍家はそう言って面白がり、やがて儀式は終了。その後は酒宴が開かれたということです。
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終わりに
十一日 甲戌 江間殿(北条義時)の嫡男の童形(泰時)、この間江間にありて、昨日参着す。去ぬる七日の卯の剋、伊豆国において、小鹿一頭を射獲たり。すなはちこれを相具せしめ、今日参入す。厳閤箭祭の餅を備へ、子細を申さるるの間、将軍家西侍の上に出御、上総介(足利義兼)・伊豆守(山名義範)以下の数輩列候す。まづ十字を供ふ。将軍家、小山左衛門尉朝政を召し、一口を賜ふ。朝政御前に蹲踞して、三度これを食ふ。初口には叫声を発ち、第二、第三には然らず。次に三浦十郎左衛門尉義連を召し、二口を賜ふ。三度にこれを食ひて、毎度声を発つ。三口の事、すこぶる思きめし煩ふの気あり。小時あって、諏方の祝盛澄を召すに、殊に遅参す。しかれども三口を賜ふ。三度にこれを食ひて、声を発たず。およそ十字を含むの体、三口の体に及びて、おのおの伝へ用ゐるところ、皆差別あり。珍重の由、御感の仰を蒙る。その後勧盃数献と云々。
※『吾妻鏡』第十三 建久4年(1193年)9月11日条
以上、北条泰時が初めて獲物を射止めたお祝いエピソードを紹介してきました。
実父の義時はもちろんのこと、金剛を我が子のように可愛がっていた頼朝の喜びようも大変なものだったようです。
その後、立派に成長していく俺たちの泰時。他にもエピソードがたくさんあるので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡6富士の巻狩り』吉川弘文館、2009年6月
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