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【関ヶ原の戦い】敗軍の名将・大谷吉継は裏切り者の小早川秀秋に何と言った?【どうする家康】

戦国時代
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白い布で顔を隠した、才気あふれる名将

大谷吉継 おおたに・よしつぐ
[忍成修吾 おしなりしゅうご]

豊臣家家臣、越前敦賀を治める大名。人望厚く、秀吉、家康からも頼りにされる切れ者。友人・石田三成と家康が対立を深める中、大病から復帰した吉継の決断が、形勢を大きく変える。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

石田三成の盟友として知られる文武両道の名将・大谷吉継。天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5・1600年)でも三成率いる西軍に属し、徳川家康率いる東軍に敢然と立ち向かいました。

大谷義隆(吉継)。「関ケ原合戦図屏風」より

当時すでに盲目ながら巧みな用兵で奮戦したものの、武運つたなく敗れ去ってしまいます。

今回はそんな大谷吉継の最期を紹介。その姿は、実に鬼気迫るものでした。

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畜生に何を申してもムダか!

「……金吾(小早川秀秋)殿にお目通り願えまいか。一言申し上げたいことがある」

吉継は、西軍を裏切った小早川秀秋に生け捕られてしまいました。

「……何か」

やってきた秀秋に対して、吉継は言います。

「それがしは既に盲(めし)いておるゆえ、近くに寄られよ」

「……これでよいか」

落合芳幾「太平記拾遺 金吾中納言秀秋」

膝をつき合わせるばかりに近づいた秀秋へ、吉継は声を限りに怒鳴りつけました。

「元よりそなたは信用出来なかったのだ。それで昨夜、そなたに本心を問うたら何と申した。『治部殿を裏切るなど有り得ない』と言うたのは何だったのか。さらには神仏に誓いを立てる起請文まで書いたではないか。昨日の誓いを今日には破る、それが人間のすることか!」

「……」

ぐうの音も出ない秀秋に、吉継は続けます。

「まぁ、神仏に立てた誓いの意味すら分からぬ畜生に何を言うても無駄か……詮なきことを申した。放念せぇ」

もうお前を人間とは思わない。吉継の言葉を、秀秋はどう受け取ったのでしょうか。

「此度のご褒美で、そなたは国の二つ三つも賜るのであろうよ。だが今に見ておれ。三年(みとせ)の内に思い知らせてくれるわ!」

我が死に様を見るがよい!言い放つなり吉継は、太刀を抜いて切っ先をくわえ、喉を刺し貫いて絶命しました。

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終わりに

五七 大谷刑部最期の事 金吾中納言秀秋卿 裏切の事、今度の大将浮田秀家に仰せ付けられ候を憤りてともいふ 関ヶ原裏切に付て、西方敗軍の折、大谷刑部嘉隆「金吾殿へ一言申したき事あり。病気にて眼見えず候間、近くへ引き参り候へ。」とて、やがて近くに成り候時、金吾殿に向ひ高聲に申し候は、「元来御自分心元なく存知候故、昨夜その元へ参り不審申し候處、『この期に及び頼母しき心底かな、われ全く異心無し』と御申し候故、『迚もの事に神文のなされ候様に』と申し候へば、安き事とて神文を給はり候。昨夜の儀今日変改裏切の事、何とこれが人たる者の仕かたに候や。よし畜生と思ふ上は、何事を申すも無益なり。今度の褒美に定めて国の二三箇国も御もらひ、仕合せよくあるべく候が、待つて御覧候へ、三年の内に思ひ知らせ申すべし。我が死様を見よ。」と、はたと睨み、太刀をくはへ飛び下り、突き貫かれて死したり。その後金吾殿には、備前・美作を下され候。扨も刑部が末期の顔、中納言殿の目を離れず、夜晝おそろしく思召され、関ヶ原第三年慶長七年寅九月十五日邪病に侵され廿二にして死去なり。秀秋は太閤政所の甥なり。筑前の領主小早川隆景の家督、筑前一国竝び筑後二郡東肥前二郡を下され候なり。

(吉継の死に方については諸説あり。秀秋との対面は後世の伝承と考えられます)

※『葉隠聞書』第十巻

「……あなや!」

吉継の死よりこの方、秀秋は一日として心休まることはありませんでした。

吉継の怨霊に悩まされる秀秋。月岡芳年「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」

昼に夜に吉継の亡霊が現れ、ずっと自分を責め立てるのです。

「もう、もう堪忍してくれ!」

せっかく関ヶ原の恩賞として、家康から備前・美作の二ヶ国を授かったのに、慶長7年(1602年)9月15日に発狂。

そして七日後の9月22日に死んでしまいました。

関ヶ原の合戦より三年目を迎えた秋のことです。

さて、戦国ファンなら誰もが知っていようこの名場面を、大河ドラマ「どうする家康 」はどのように描くのでしょうか。

もし実現したらトラウマ必至なので、心して見届けたいですね!

※参考文献:

  • 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月

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