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歴戦の老勇者・岡部元信の最期。高天神城の合戦を史料で詳解!【どうする家康】

戦国時代
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今川義元(演:野村萬斎)から今川氏真(演:溝端淳平)に仕え、武田信玄(演:阿部寛)そして武田勝頼(演:眞栄田郷敦)に忠義を尽くした岡部元信(演:田中美央)。

イメージ

戦国乱世の荒波に翻弄されながらも懸命に闘い抜いてきた歴戦の老勇者が、いよいよ最期の時を迎えようとしています。

そこで今回は岡部元信らが壮絶な討ち死にを遂げた高天神城の合戦を紹介。NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習&復習になることでしょう。

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周囲に砦を築き、高天神城を完全包囲

時は天正8年(1580年)10月ごろ、徳川家康(演:松本潤)は堅牢な高天神城を攻略するため、周囲に次々と砦を築いていきました。

松平家忠(画像:Wikipedia)

廿二日 戊午 高天神城き■ニ陣をよせ候

廿四日 庚申 四方堀きり普請候

廿五日 辛酉 ■い普請候

廿六日 壬戌 さく付候

廿七日 癸亥 家康より■い■■■候

廿八日 甲子 家康と馬伏塚へ馬を■入候

廿九日 乙丑 酒左ふる舞候

晦日 丙刀(寅) 自家康兵粮■候

※『家忠日記』天正8年(1580年)10月条(部分)

10月22日 松平家忠(まつだいら いえただ。日記主)が高天神城の近くに布陣する。

10月24日 陣の四方に堀をめぐらした(長期戦の備え)。

10月25日 普請(工事。ここでは陣地構築)を実施する。

10月26日 柵をめぐらす。

10月27日 家康がやって来た。

10月28日 家康と馬伏塚(まむしづか)の砦に入る。

10月29日 酒井左衛門尉(忠次)より酒の差し入れ。

10月30日 家康より兵糧が届けられる。

※太陰暦は一ヶ月30日なので、晦日(みそか=三十日)が月末。

他の場所にも次々と砦を築いて高天神城を完全包囲。岡部元信らは敵中に孤立してしまいます。

堅牢なるがゆえに周囲の友軍は相次いで降伏・逃亡、気づけば残すは高天神城だけになってしまったのです。

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見捨てられた高天神城。家康、城兵の助命を拒絶

さぁ困りました。勝頼とすれば今すぐにも助けに行きたいところですが、下手に動けば長篠合戦の二の舞を演じることになります。

と言って見捨ててしまえば、これまで武田家に従っていた家臣たちは、勝頼を見限り織田・徳川に寝返るでしょう。

いざと言うときに助けてくれるからこそ、日頃から不満があっても臣従してきたのですから。

さぁ、どうする勝頼……結論から言えば、勝頼は高天神城を見捨ててしまったのでした。

かくして援軍も補給も絶たれてしまった高天神城は飢餓地獄に陥ります。

観念した岡部元信らは、自分たちの切腹と引き換えに、城兵の助命を願い出ました。

岡部らの投降を拒否する家康。歌川芳虎筆

しかし家康はこれを拒絶。信長の意向で、高天神城は残る武田勢への見せしめとして、惨たらしく滅ぼすことが決まっていたのです。

「そなたらが窮地に陥っても、勝頼は助けに来ないし、助ける力もない。あらかじめ寝返るならば助けるが、戦うならば高天神城がそなたらの末路じゃ」

年が明けて天正9年(1581年)に入ると、すっかり兵糧の尽きた城内では、木の根をかじるまで飢えていたと言います。

明日が最期……演じられた「高舘」の幸若舞

「もはやこれまで、このまま餓死(かつえじ)ぬくらいなら、いっそ撃って出よう」

天正9年(1581年)3月21日、いよいよ追い詰められた岡部元信らは、翌日に玉砕を覚悟しました。

その時の様子が『徳川実紀』に記されています。

……高天神の城責られし時。城中より幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出にせむといひ出ければ。   君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城際近く進みよりたかたちをうたひ出でたり。城兵みな堀際によりあつまり。城将の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感涙を流してきゝ居たり。さて舞さしければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃関東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等とりそへて大夫に引たり。……

※『東照宮御実紀附録』巻三

徳川の軍中に幸若舞(こうわかまい)で名高い幸若與三大夫(こうわか よさんだゆう)がいると聞いて、城兵たちはこの世の思い出に、舞を一指しせがみました。

これを聞いた家康は、彼らを哀れんで與三大夫に舞を披露してやるよう命じます。

演じられた幸若舞(イメージ。画像:コトバンク)

舞われたお題は「高舘(たかたち)」。かつて同地に最期を遂げた源義経(みなもとの よかつね)主従の義烈が演じられました。

城兵たちはみな食い入るようにこれを鑑賞、大将の栗田刑部丞(くりた ぎょうぶのじょう)はじめ涙せぬ者はなかったと言います。

「まこと天晴れの舞なれば、これで未練なく旅立てよう」

やがて城内から茜色の陣羽織を着た騎馬武者が現れ、與三大夫に引出物を与えたのでした。

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この首級は男か?女か?

……かくて明日の戦に城兵皆いさぎよく戦て討死す。殊さら茜きし武者は晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとりどり御覧に備へし内に。顔の様十六七ばかりと見ゆるが。薄化粧し歯くろめ髪なでつけ。男女いづれとも見分けがたきがあり。君その眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの内に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。黒眼明らかにみえば男なれと宣へば。笄もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部最愛の小性に時田鶴千代といふ者にて討死の様いと優にやさしかりとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。……

※『東照宮御実紀附録』巻三

そして翌3月22日、最早これまでと高天神城の将兵は開門し、死に物狂いで徳川の大軍に斬り込みました。

将から兵卒に至るまで勇戦する中、茜色の陣羽織を着た騎馬武者も目覚しい働きを遂げたということです。

かくして戦闘が終わり、敵の首級を実検していると、その中に男女さだかならぬ首級がまじっていました。

首実検にて(イメージ)

歳の頃は16、17くらいでしょうか。まったく、女首などいくら獲っても手柄にはならんのに……。

打ち捨てようかと思ったものの、その面魂は覚悟を決めた者のそれです。

やはり決めかねたので、家康に判断をお願いしたのでした。

「眼を開けてみて、白目がちなら女、黒目がハッキリしていれば男であろう」

戦の恐ろしさに瞳孔が閉じてしまうような臆病者なら女として扱え、最期まで闘志を捨てず敵を睨みつける勇者ならば、間違いなく男であろう(たとえ女であろうと、武士として丁重に取り扱え)。

……ということでしょうか。首から下がない以上、実際のところはともかく、ともあれ確かめてみましょう。

固く閉じられた瞼を笄(こうがい)でこじ開けて見ると、果たして黒々たる双眸がこちらを睨みつけます。

これは間違いなく男である。一同感心していると、これなるは時田鶴千代(ときた つるちよ)、栗田刑部丞が最も愛していた小姓とのこと。

最期まで主君を守り、平素の愛情に報いようと奮戦したのでしょう。歳こそ若くとも、彼は立派な武士です。

鶴千代の美しい忠義に、家康はじめ一同感服せずにはいられませんでした。

高天神城を脱出した一騎の若武者

高天神城を脱出する一騎の若武者(イメージ)

……又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎騎乗する様をはるかに御覧じ。俄に御先手へ仰傳へられしは。只今に城中より真先かけて乗出る武者あるべし。かまへて支えとゞむべからず。若強ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乗廻して制しめらる。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍横田甚五郎尹松なるが。落城のよしを本国に注進せんため。城兵の討死をもかへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて。甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て   当家に参り。處々の御陣に供奉し度々戦功をあらはし武名世にいちじるし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり。(落穂集。家譜。明良洪範。)

※『東照宮御実紀附録』巻三

かくして陥落した高天神城。武田の将兵がことごとく討死する中、二の丸よりただ一騎、猛然と駆け出す若武者がおりました。

「よいか、あれには手を出すな」

家康は将兵らに命じます。戦う意思はないものの、行く手を遮れば痛手を負わされる。そんな気魄を感じさせます。

そう、彼は高天神城の陥落を勝頼に伝えるための使者。その証拠に、付き従う者は誰もいません。

彼こそは横田甚五郎尹松(よこた じんごろうただとし)。武田家の滅亡後は家康に仕え、たびたび武功を重ねた剛の者。

やがて五千石を賜り、旗奉行を務める栄誉に与るのでした。

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高天神城の戦い・首獲りランキング

歌川芳虎「後風土記英勇傳 大須賀六郎左衛門康高」

三月廿五日 亥剋遠江国高天神籠城之者過半及餓死残党こほれ落柵木を引破罷出候を爰可しこ尓て相戦 家康公為御人数 討捕頸之注文
百参十八 鈴木喜三郎 鈴木越中守  拾五 水野国松  十八 本田作左衛門  七ツ 内藤三左衛門  六ツ 菅沼次郎右衛門  五ツ 三宅宗右衛門  貮拾一 本田彦次郎  七ツ 戸田三朗左衛門  五ツ 本田庄左衛門  四拾貮 酒井左衛門尉  拾六 石川長門守  百七十七 大須賀五郎左衛門  四拾 石川伯耆守  拾 松平上野介  貮拾貮 本田平八郎  六ツ 上村庄右衛門  六拾四 大久保七郎右衛門  四拾一 榊原小平太  拾九 鳥井彦右衛門  拾参 松平督  一ツ 松平玄蕃允  一ツ 久野三郎左衛門  一ツ 牧野菅八郎  一ツ 岩瀬清介  二ツ 近藤平右衛門   頸数六百八十八

※『信長公記』巻之十四(天正九年辛巳)(三)高天神干殺歴々討死之事

さて、戦い終わって論功行賞。今回の首獲りランキングはこちらになります。

  • 大須賀康高(おおすが やすたか。五郎左衛門)……177
  • 鈴木喜三郎(きさぶろう)&鈴木越中守(えっちゅうのかみ)……2人で138
  • 大久保忠世(演:小手伸也。七郎右衛門)……64
  • 酒井忠次(演:大森南朋。左衛門尉)……42
  • 榊原康政(演:杉野遥亮。小平太)……41
  • 石川数正(演:松重豊。伯耆守)……40
  • 本多忠勝(演:山田裕貴。平八郎)……22
  • 本多康重(ほんだ やすしげ。彦次郎)……21
  • 鳥居元忠(演:音尾琢真。彦右衛門)……19
  • 本多重次(ほんだ しげつぐ。作左衛門)……18
  • 石川康通(いしかわ やすみち。長門守)……16
  • 水野国松(みずの くにまつ。後の水野勝成)……15
  • 松平督(まつだいらのかみ?詳細不明)……13
  • 松平康忠(まつだいら やすただ。上野介)……10
  • 内藤信成(ないとう のぶなり。三左衛門)……7
  • 戸田忠次(とだ ただつぐ。三郎左衛門)……7
  • 菅沼忠久(すがぬま ただひさ。次郎右衛門)……6
  • 上村庄右衛門(うえむら しょうゑもん)……6
  • 三宅宗右衛門(みやけ そうゑもん)……5
  • 本多信俊(ほんだ のぶとし。庄左衛門)……5
  • 近藤秀用(こんどう ひでもち。平右衛門)……2
  • 松平清宗(まつだいら きよむね。玄蕃允)……1
  • 久野三郎左衛門(くの さぶろうざゑもん)……1
  • 牧野菅八郎(まきの かんぱちろう)……1
  • 岩瀬清介(いわせ きよすけ)……1

※人名の読みについて、一部推測を含みます(正しい読みをご存知の方は、ご教示下さい)。

それにしても、一人で100以上の首級を上げるって、凄まじい活躍ですね。

鼻を削ぎ落として持ち歩くにしても、それなりの重量になったでしょう。

また効率的に削ぎ落とさないと他の首級を仲間に奪われて(敵を倒されて)しまうため、首級の処理は家臣に任せたのかも知れません。

こうして見ると、徳川家中で随一の豪傑と名高い本多忠勝が22に対して、参謀的なイメージの石川数正が40。何だか意外な気がします。

榊原康政「よう平八。わしは41も獲ったぞ!」

本多忠勝「やかましい!こういうのは量よりも質、雑魚の首級は他の者へ譲ってやったのじゃ」

……なんてやりとりが、徳川家中で繰り広げられていたのかも知れませんね。

高天神城で討死した武田の勇士たち

右之内惣頭之頸之注文 駿河先方衆
岡部丹波守 三浦右近 森川備前守 孕石和泉守 朝比奈弥太郎 進藤与兵衛 油比可兵衛 油比藤太夫 岡部帯刀 松尾若狭守 名郷源太 武藤刑部丞 六笠彦三郎 神応但馬守 安西平右衛門 安西八郎兵衛 三浦雅楽助」   栗田内左右之者 信濃衆 栗田刑部丞 栗田彦兵衛 同弟二人 勝役主税助 櫛木庄左衛門 水嶋 山上備後守 和根川雅楽助」   大戸内 長共  大戸丹後守 浦野右衛門 江戸右馬丞」   横田内 長共  土橋五郎兵衛尉 福島木工助   與田能登守内 長共  與田美濃守 與田木工左衛門 與田部兵衛 大子原 川三蔵 江戸力助」 以上……

※『信長公記』巻之十四(天正九年辛巳)(三)高天神干殺歴々討死之事

徳川勢が凱歌を上げた一方で、武田勢の主な討死は以下の通りです。

イメージ(C)歴史屋

【高天神城の戦い・主だった討死者】

  • 岡部元信(丹波守)
  • 三浦右近(みうら うこん)
  • 森川備前守(もりかわ びぜんのかみ)
  • 孕石元泰(はらみいし もとやす。和泉守)
  • 朝比奈弥太郎(あさひな やたろう)
  • 進藤与兵衛(しんどう よへゑ)
  • 油比可兵衛(ゆい かへゑ)
  • 油比藤太夫(ゆい とうだゆう)
  • 岡部帯刀(おかべ たてわき)
  • 松尾若狭守(まつお わかさのかみ)
  • 名郷源太(なごう げんた)
  • 武藤刑部丞(むとう ぎょうぶのじょう)
  • 六笠彦三郎(むかさ ひこざぶろう)
  • 神応但馬守(かんのう たじまのかみ)
  • 安西平右衛門(あんざい へいゑもん)
  • 安西八郎兵衛(あんざい はちろべゑ)
  • 三浦雅楽助(みうら うたのすけ)
  • 栗田寛久(くりた かんきゅう。刑部丞)
  • 栗田彦兵衛(くりた ひこべゑ)
  • 同弟二人
  • 勝役主税助(かつまた ちからのすけ。勝俣?)
  • 櫛木庄左衛門(くしき しょうざゑもん)
  • 水嶋(みずしま 某)
  • 山上備後守(やまがみ びんごのかみ)
  • 和根川雅楽助(わねがわ うたのすけ)
  • 大戸丹後守(おおと たんごのかみ)
  • 浦野右衛門(うらの ゑもん)
  • 江戸右馬丞(えど うまのじょう)
  • 土橋五郎兵衛尉(どばし ごろうひょうゑのじょう)
  • 福島木目助(ふくしま もくのすけ?)
  • 與田美濃守(よだ みののかみ)
  • 與田木工左衛門(よだ もくざゑもん)
  • 與田部兵衛(よだ ぶへゑ)
  • 大子原(おおこはら 某)
  • 川三蔵(かわみくら 某)
  • 江戸力助(えど りきすけ)

※人名の読みについて、一部推測を含みます(正しい読みをご存知の方は、ご教示下さい)。

これまで武田家の最前線を支え続けた勇士たちが、数多命を落としました。

マイナーな名前が並んでいますが、彼らの活躍についても、また改めて調べ直したいと思います。

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岡部元信の首級は誰が獲った?

奮戦する彦左衛門(イメージ)月岡芳年筆

……天正九年辛巳三月廿二日之夜之四ツ時分尓。ふたて尓わけてきつて出る。あすけ。尾原。石河長土守之毛ちくちハ。いりゑの様成處奈れバ。城寄是をよ■見と忍て。きつて出け■バ。間ハ不り奈れバ。それへとへとへとく可け入られバ。三方よ里指こさせて打ける間。不りいつ■い。打ころ志て。夜明て頭をバ取。岡辺丹波と横田甚五郎者。林之谷へ。大久保七郎右衛門手へ出る。番之者六人指越候へハ御意奈れ共。七郎右衛門ハ大久保平助尓相そへて。こゝ■の者を十九騎指越ける。然間。城の大将尓て有ける。岡辺丹波おば。平助可”たち付而。寄子の本田主水丹。うたせたり。丹波と奈の里たらバ。よ里子尓ハうたせま志”けれ共。奈のらぬうへ成。……

※『三河物語』

さて、天正9年(1581年)3月22日の戦闘で、岡部元信の首級を上げたのは誰だったのでしょうか。

大久保忠世の弟・大久保忠教(ただたか。彦左衛門)が自身の著作『三河物語』にこんなエピソードを書いていました。

乱戦の中で、名乗りもせずに突っ込んで来た老武者と斬り合いに及んだ彦左衛門。まさかそれが高名な岡部丹波とは思わず、もっと名のある敵を討ち取ろうと老武者を家臣の本多主水(ほんだ もんど)に任せたのです。

果たして主水が老武者を討ち取ると、それが誰あろう岡部丹波だったという次第。

「名乗ってくれさえしたならば、わしが自ら討ち取ったのに……」

大手柄を譲ってしまった彦左衛門、大いに悔やんだということです。

終わりに

……武田四郎 御武篇尓恐眼前ニ甲斐信濃駿河 三ヶ国尓て歴々之者上下不知其数 高天神ニ而干殺尓させ後巻不仕天下失面目候 信長公之御威光と申な可ら家康公未被及壮年以前尓三川国端尓土呂 佐座喜 大浜 鷲塚 とて海手へ付て可然要害富貴ニして人多湊也大坂より代坊主入置門徒繁昌候て既国中過半門尓成也無二ニ彼一揆可被成御退治之御存分ニ而経年月無御退屈爰可しこ尓て御自身数ヶ度之被成候戦御高名度々不知其数一度も不覚無之終尓被達御本意一国平均尓被仰付年来之御辛労御名誉不可勝計此後遠州於身方ヵ原 武田信玄と打向御合戦又 武田四郎と長篠御合戦何れも何れも御手柄一方ならぬ御事也併御武徳両道御達者御冥加不申足

※『信長公記』巻之十四(天正九年辛巳)(三)高天神干殺歴々討死之事

かくして終結した高天神城の合戦。これをもって、家康は武田に奪われた遠江国をほぼ完全に奪還。いよいよ勝頼の命運は傾いていくのでした。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、老勇者の最期をどのように描くのか、心して見守ろうと思います。

※参考文献:

  • 『我自刊我書零本 信長公記 巻下』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 『家忠日記 二』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『日本戦史材料 第貮巻 三河物語 全』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 本郷和人『徳川家康という人』河出新書、2022年10月
  • 丸島和洋『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』平凡社、2020年3月
  • 歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学研プラス、2007年1月

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