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徳川家康、絶体絶命!?三大危機のラスト「神君伊賀越え」とは【どうする家康】

戦国時代
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徳川家康(演:松本潤)の三大危機と言えば、永禄6~7年(1563~1564年)に勃発した「三河一向一揆」、武田信玄(演:阿部寛)に惨敗を喫した元亀3年(1572年)の「三方ヶ原合戦」。

そして、残る一つは天正10年(1582年)の「神君伊賀越え」。これは盟主・織田信長(演:岡田准一)の死によって窮地に陥った家康が、外遊先から命からがら三河まで逃げ帰った一件を指します。

今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より、神君伊賀越えのエピソードを紹介。

NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習にいかがでしょうか。

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腹を切ろうとする家康、諫言する忠勝

外遊中の家康ご一行様(イメージ)

時は天正10年(1582年)5月、家康は信長に誘われて上洛。京都で遊んだ(視察や外交などを含む)後に堺(大阪府堺市)を訪ねていました。

さて、そろそろ京都へ戻ろうかと思っていた6月3日、茶屋四郎次郎清延(演:中村勘九郎)が駆けつけます。

「一大事にございます!織田様が、昨夜本能寺にて御討死!」

信長を攻めたのは明智光秀(演:酒向芳)、いわゆる「本能寺の変」です。これを聞いた家康は、どうしたものか考えました。

「……致し方ない。ただちに仇を討つべきであるが、今いる手勢で明智を討つことも敵わぬ」

だから今は一刻も早く京都へ戻り、知恩院で腹を切って信長の後を追おうと言い出します。

そうと決まれば善は急げ。さっそく京都に向かいますが、納得いかない本多忠勝(演:山田祐貴)が諫言しました。

「若造が言うのも何ですが、わざわざ京都へ戻って腹を切ったところで、そんなの自己満足に過ぎません。それよりも三河に帰って兵を集め、仇討ちをしてこそ織田様も喜ばれるのではないでしょうか」

忠勝の心意気に感じた酒井忠次(演:大森南朋)らは、さっそくその旨を家康に報告します。

「うむ、わしもそう思わぬではなかった。しかし土地勘もない場所で迷った挙句、山賊や落ち武者狩りに遭ったら目も当てられないではないか。だからいっそ京都で……と考えたのだが、三河まで道案内できる者がおれば、それも可能じゃな」

「ならば、それがしが」

申し出たのは、長谷川秀一(はせがわ ひでかず)。信長の家臣で、家康たちを道案内するように命じられていたのでした。

「上様の最期をお守りできなかった不甲斐なさを恥じ入るばかり。徳川様が我が主の仇討ちをして下さるというなら、拙くもお助けして、上様への御恩に報いとう存じます」

そこでさっそく河内(大阪府南東部)・山城(京都府中央地域)を経て近江(滋賀県)・伊賀(三重県北西部)を抜けていくのですが、秀一は道中の者たちに信長へ仕官を世話した貸しがあるため、快く通してくれるでしょう。

「よし、ならば皆で三河へ帰ろう!」

「「「ははあ……!」」」

かくして自害を思いとどまった家康は、一路三河を目指したのです。

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出された赤飯を手づかみで…近江信楽までの難道中

川を渡る家康ご一行(イメージ)

まず秀一は大和(奈良県)にいる十市玄蕃允(といち げんばのじょう)へ手紙を出して護衛を出させました。やがて木津川へ来ると柴船を借りて、これを忠勝が漕いで渡ります。

やがて河内から山城へ至り、宇治川までやってきた家康ご一行。舟の手配に手こずり、忠次が何とか小舟を一艘用意できたので、家康だけ乗せて後は馬や徒歩で渡りました。

「これは徳川様、この度は大変でしたな」

宇治川を渡ると、近くにある呉服大明神(くれはだいみょうじん)の神職・服部美濃守貞信(はっとり みののかみさだのぶ)が氏子たちを引き連れて道案内を申し出ます。

神職様が行列の先頭に立つことにより、人々は神様の威光を恐れて誰も邪魔することはありませんでした。

さて、そんな具合に近江国の信楽(滋賀県甲賀市)までたどり着いた家康たち。しかしその道中には木戸が設けられ、往来が封鎖されていました。

「はて、何かあったのだろうか……?」

当地の領主は多羅尾光俊(たらお みつとし)と言って、彼も秀一の顔なじみです。

「多羅尾殿、これこれしかじか故、開けてくれぬか」

秀一の話を聞いた光俊は喜んで迎え入れ、家康たちを自宅でもてなしたのでした。

「さぁさぁ、赤飯が炊けましたぞ!」

ここまでの道中でよほど飢えていたらしく、家康たちは出された赤飯を手づかみで貪り食ったそうです。あまり慌てて、喉に詰まらせないか心配になってしまいます。

「ところで、これはわしが永年信心して来た勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)にございます。霊験あらたかゆえ、きっと徳川様を御加護下さいましょう」

と、光俊が献上した勝軍地蔵は大切に持ち帰られ、慶長15年(1610年)に江戸の愛宕山圓福寺(東京都港区)へ安置されました。

また出発に先立って、家康は御供の者たちに黄金二枚ずつ配ったと言います。

「こういう非常時は各自で黄金を持っていた方がよかろう。まとめて運ぶと重たいし、それぞれ何か役に立つかも知れぬ」

もちろん道中で世話になった人々に対しても謝礼を欠かさなかった家康。そんなこんなで、ついに一番の難所である伊賀越えに差しかかるのでした。

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海が見えた!ついに岡崎城へ

「あぁ、疲れたなぁ」「しっかりなさいませ。まだまだ先は長うございますぞ」

さて、家康たちが伊賀国へ入ると柘植清広(つげ きよひろ。三之丞)なる者が現れました。

「かねて徳川様へお仕えしたく存じておりました。これより我らがご案内申す」

伊賀の地侍や甲賀より従ってきた者たち(多羅尾光俊の息子たち)などが護衛して、鹿伏兎越(かぶとごえ)の難所を経て伊勢(三重県)へと入ります。

「……海じゃ、海にございます!」

ついに伊賀路を踏破した家康たち(原文が短くてあまり大変さが伝わって来ませんが、きっと筆舌に尽くしがたい苦難があったことでしょう)。

ともあれ白子浦(三重県鈴鹿市)から船を出して、三河の大浜(愛知県碧南市)までたどり着いたのでした。

「あぁ、腹が減った!何か食うものはないか?」

家康が船子(ふなこ。船頭)に食い物をせびると、用意しておいた雑穀飯(アワ・キビ・米)を、椀に持って差し出しました。

「何かおかずはないか?」

主食だけでは飽き足らず、要求を重ねる家康。そこで船子は蜷(にな。巻貝)の塩辛を進めます。

「いやぁ旨い。こりゃ飯が進むわい!」

お腹が落ち着いたところで大浜湊に入港した家康たち。出迎えに来た長田重元(おさだ しげもと。平左衛門)の家に一泊し、翌日岡崎城へ帰り着いたのでした。

「まさに九死どころか十死に一生を得たことは、まさしく天運と言えましょう」

出迎えた家臣たちは、主一同打ち揃って感涙に暮れたということです。

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こぼれ話・浅間神社の「麦えまし」

ところで『徳川実紀』には記述がないのですが、三河に上陸した家康たちが浅間神社(愛知県碧南市)でへばってしまったという伝承が残されています。

「腹が減って、もう一歩も動けない!」

あと少しのところまで来て、困ったことだ……仕方がないので井伊万千代(井伊直政)が近所の農民たちに飯を恵んでもらうよう頼んで回り、何とか「麦えまし」を掻き集めました。

イメージ

この麦「えまし」とは「めし(飯)」が訛ったものか、あるいは麦を「え増し(えは強調の接頭語)」たものでしょうか。

貧しい農民たちが、少しでも腹を膨らませようと水を多く入れて炊いた麦飯というか麦粥と推測されます。

それでも飢えた家康にとっては大変なご馳走。旨い旨いと平らげて力を取り戻し、無事に岡崎城へ帰還したのでした。

もちろん「我らが神の君」、お世話になった者たちへの御礼は決して忘れることなく、この農民たちにも山のような米俵を送り届けたということです。

※参考:碧南の民話 No.8 麦えまし

碧南の民話 - 碧南市民図書館
碧南市民図書館の公式サイト。施設や行事に関する情報をご案内しております。インターネットから蔵書検索や予約することもできます。

終わりに

何とか生還できた家康(イメージ)河鍋暁斎筆

……天正十年五月織田殿の勧めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覧終り。既に御帰洛あらんとせしに。茶屋四郎次郎清延たゞ一騎馳来り。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り。忠勝四郎次郎とゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。   君聞しめしおどろかせ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に帰り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ半里ばかりゆかせ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川数正。榊原康政等にむかひ。若年のものゝ申事ながら。君御帰京有て無益の死を遂られんよりは。速に本国にかへらせ給ひ御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてそのむね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ山賊野伏の為に討たれんよりはと思ひ。帰洛せんとはいひつれ。誰か三州への案内知りたるものゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺の郷導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死し故主の恩に報じなん。これより河内山城をへて江州伊賀路へかゝらせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障ることはあらじと。かひがひしく御受申せば。   君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案内させ。木津川に至らせたまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河内路へて山城に至り。宇治川にて河の瀬知りたるものなれば。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にてわたす。その辺にいつき祭る呉服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立て郷導し奉れば。郷人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信楽に至らせ給へば。土人木戸を閉て往来を止めたり。此地の代官多羅尾四郎光俊はこれも秀一が舊知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戸をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を御加護の為とて献る。(慶長十五年この像をもて愛宕山円福寺に安置せらる。)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚づゝたまひ。かゝるときは人ことに金もたるがよし。何れか用をなさんも志れずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植三之丞清広はじめ。かねて志を   當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案内し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大濱の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟黍米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て献る。菜はなきかと尋給へば。蜷の塩辛を進む。風味よしとて三聞しめす。かくて御船大濱に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎へ御帰城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ。(武道雑談。永日記。貞享書上。酒井家舊蔵聞書。続武家閑談。)……

『東照宮御実紀附録巻四』「天正十年家康伊賀路之危難」

……以上、神君伊賀越えのくだりを紹介してきました。

さぁこれから兵をまとめていざ出陣……と行きたいところですが、明智光秀は羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)によって滅ぼされていました。何はともあれ、命があってよかったです。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、この神君伊賀越えがどのように描かれるのか、今から目が離せませんね!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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