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【歴史旅】武田八幡宮(山梨県韮崎市)の境内に鎮座。為朝神社の由緒は?

伝承民俗
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山梨県韮崎市は、甲斐武田氏に殊ゆかりの深い土地。今も多くの史跡が現存しています。

武田氏の遺業を伝える代表的な史跡の一つが武田八幡宮。創建以来、甲斐武田氏の氏神様として、その滅亡後も篤く崇敬されてきました。

そんな武田八幡宮の社殿に向かって左へ50メートルほど進むと、為朝神社(ためともじんじゃ)が鎮座しています。

為朝神社の社殿。筆者撮影

為朝と言えば、保元の乱で活躍した強弓の遣い手・鎮西八郎(ちんぜいはちろう)こと源為朝が脳裏をよぎることでしょう。

果たしてこの為朝神社にはどんな由来があるのか、気になったので調べてみました。

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源平合戦の最中に武田信義が創建

武田信義。菊池容斎『前賢故実』より

為朝神社は元暦元年(1184年)、甲斐源氏の棟梁であった武田太郎信義(のぶよし)が創建。

社殿を建立して源為朝を祀り、その肖像画と大長刀を奉納したと言います。

ちなみに武田八幡宮は弘仁13年(822年)に嵯峨天皇の勅命を受け、宇佐八幡宮から御分霊を勧請。在地の武田王(たけだのきみ)と合祀したのが由来でした。

軍神である八幡大菩薩の傍らに武勇名高き為朝をお祀りしたことで、武田家の武運長久を祈願するねらいがあったものと考えられます。

以後代々甲斐国守護職として君臨してきた武田氏ですが、戦国時代の天正10年(1582年)に織田信長の侵攻を受けて滅亡。その後は次第に為朝神社への崇敬も衰退していきました。

疱瘡よけの神様になるも……。

歌川国芳「英勇一百傳 鎮西八郎為朝 伊豆国加茂郡八丈島安置 正一位為朝大明神肖像」

すっかり荒廃してしまった境内を復活させたのは文化13年(1816年)。

甲斐源氏の直系子孫を称する深沢文兵衛(ふかさわ ぶんべゑ)こと源直房(ただふさ)らが往時の偉容を再現します。

すると人々は為朝神社を疱瘡(ほうそう。天然痘)よけの神様として崇敬し、遠方からも参拝客で賑わいました。

何で為朝が疱瘡よけの神様にされたのか、ハッキリしたことは分かりません。

恐らくは牛頭天王(ごずてんのう)と習合した須佐之男命(スサノオノミコト)のように「暴れ者だから疱瘡も退治してくれるだろう」という期待があったものと思われます。

そして実際に霊験が現れたことから、人々は為朝神社を篤く崇敬するようになったのでしょう。

しかし明治時代に入ると種痘(ワクチン)が普及し、疱瘡は影をひそめて行きました。

すると人間なんて薄情なもので、あれほど拝みすがっていた為朝神社に見向きもしなくなったと言います。

人々は神仏よりも科学を信仰するようになり、次第に驕り高ぶるようになっていくのでした。

終わりに

社殿に奉納されている源為朝像。保元の乱に敗れた後、伊豆大島へ島流しにされるが脱出してこの地へ至り、武田為朝を称したという伝承も。天保12年(1841年)製

為朝神社は鎮西八郎源為朝を祀った神社で、元暦元年甲辰年武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った。後文化十三年丙子三月源氏の直系深沢分兵衛源直房等がその衰頽を憂い、昔日の面影を再現したものである。古来、疱瘡除けの神として四方民の信仰厚く、遠近より賽する者多かりしが明治維新後種痘の実施と共に参詣者も跡を絶つにいたった。戦後再び人文地史美術研究のため詣う人が日を追って増加している。
昭和五十六年十月
韮崎市観光協会

※為朝神社の由緒案内看板より

今回は武田八幡宮の境内に鎮座する為朝神社の歴史について紹介してきました。

為朝が疱瘡除けの神様として崇敬されていたとは驚きですね。

今後、不幸にも疫病が流行してしまった際には再び信仰を集めるのでしょうか。

そんな事態にならないよう、みんなが健康で幸せに暮らせるようご加護を願ったのでした。

※参考:

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