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戦死したと思っていたら…激戦地から奇跡の生還を見届けた兵事係のエピソード

昭和時代
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戦時中、軍隊と銃後の橋渡しとして、各自治体には兵事係(兵事掛)が存在していました。

その業務は召集の取り次ぎや戦死者の処理など、人の怨みや悲しみを背負うことが多く、気が重かったと言います。

しかし時には、戦死したと思っていた者が生還するという、奇跡的なケースもありました。

今回は富山県砺波郡庄下村(現:砺波市)の村役場で兵事係を勤めていた出分重信(でわき しげのぶ。以下、出分氏)のエピソードを紹介したいと思います。

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深夜の電話に緊張が走る

夜中の電話なんて、大抵ロクなもんじゃない(イメージ)

時は敗戦後の昭和21年(1946年)3月9日深夜。出分氏が村役場で宿直していると、夜間に電話がかかってきました。

夜遅い時間に村役場へ電話をかけてくるのは、たいてい警察。そして警察から深夜にかかってくる電話と言えば、そのほとんどが召集です。

とっくに戦争は終わっているし、今さら召集もないでしょうが……これまで多くの召集手続きを担当してきた出分氏に緊張が走ります。

召集が来ると、指定された者に令状(いわゆる赤紙)を届けるのも兵事係の仕事でした。

たいてい夜に届けるのですが、村でも職員が訪問すると「召集令状だ」と察するため、嫌な顔をされたことでしょう。

特に敗色濃厚だった昭和19年(1944年)から昭和20年(1945年)にかけては、召集≒戦死の可能性が高く、兵事係が死神に見えたかも知れません。

もし召集だとしたら、また怨まれるのか……しかし今は戦争も終わったのだし、とりあえず電話に出なければ……。

「もしもし、宿直です」と出てみれば、電話の主は出町駅(現:砺波駅)からかけていました。

テニアン島からの生還者

テニアン島へ上陸する米軍(画像:Wikipedia)

「もしもし、生還者が来ました」

話を聞けばテニアン島(北マリアナ諸島)に出征し、戦死したと思われた五島(ごとう)氏が、生きて帰って来たというのです。

テニアン島では昭和19年(1944年)7月24日から8月2日にかけて米軍との戦闘が行われ、陸海軍合わせて約8,000名が戦死、約300名が捕虜となりました。

五島氏は戦死として扱われており、その「遺骨」が故郷へ届けられた五島家では、百箇日法要(死後100日目の供養)が行われていたと言います。

※恐らく「遺骨」の届いた日を五島氏の死亡日と見なしたのでしょう。

さっそく出分氏が五島家へ五島氏の無事を伝えると、みんな大喜び。それまで祀っていた「遺骨」は、どこの誰の骨だったのか……なんて野暮は言わなかったと思います。

※今回は生還したから判明したものの、実態は本人と異なる遺骨が祀られている例も少なくないのでしょうね。なんせ多くの戦場では、遺体さえ回収できない極限状況でしたから……。

「生還者届」で戸籍を復活!

生還を果たした五島氏(イメージ)

かくして五島氏の生還を確認した出分氏には、もうひと仕事が待っていました。

「生還者届」の提出です。

生還者届とは、既に戦死として死亡手続きが完了した者が生還した場合、除籍された戸籍を復活されるために必要となります。

これは第一復員省(旧陸軍省)令第2号「死亡等ニ関スル諸手続ヲ完了セル軍人及軍属中生還セル者ノアリタル場合ニ於ケル届出ニ関スル件」に基づく手続きで、生還者本人と留守担当者の連署をもって生還者届を作成しました。

内地上陸から2ヶ月以内に生還者届を本籍地の地方世話部長(軍人・軍属の管理や家族等に対する恩給等を担当する)へ提出すると「死亡報告取消通知」を発行してもらえるので、晴れて戸籍が復活するという段取りです。

ちなみに富山県からテニアン島へ出征した者は200名。うち生還できたのは五島氏ただ1名だったと言います(後もう1名生還とも)。

終わりに

今回は敗戦後に奇跡の生還を果たした復員兵と、生還手続きをとった兵事係のエピソードを紹介してきました。

この奇跡的な生還に立ち会えたことが、兵事係を勤めた出分氏にとって、ほぼ唯一のよい思い出となったと言います。

召集を告げるのはもちろん、戦死を告げる兵事係は、とても辛い役目だったことでしょう。

改めて平和の尊さを実感するとともに、平和と独立を守る努力の大切さを肝に銘じたいものです。

※参考文献:

  • 黒田俊雄 編『村と戦争 ・兵事係の証言』桂書房、1988年12月
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