しばらく前の話になりますが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、阿野全成(演:新納慎也)と実衣(演:宮澤エマ。阿波局)の間に男児が産まれたシーンがありました。
これが嫡男の阿野時元(あの ときもと)かと思っていたのですが、庶兄の阿野頼全(らいぜん)だったようです。
※頼全の母親は不明、史料には時元の部分であえて母親は北条時政(演:坂東彌十郎)の娘と明記しているため、少なくとも阿波局ではないでしょう。
兄・源頼朝(演:大泉洋)と自分の頭文字を組み合わせて頼全。彼は京都の東山延年寺で修行に励んでいましたが、父が粛清された翌月(建仁3・1203年7月16日)に源仲章(演:生田斗真)と佐々木定綱(演:木全隆浩)の手によって暗殺されます。
大河ドラマ的には父が殺されてからもしばらく生き延びる時元より、こっちの方をピックアップ(二人の子供に設定)することで、遺された実衣の悲劇を強調したかったのでしょう。
ちなみに、全成には他にも子供たちがいます。
長男:阿野頼保(らいほう/よりやす)
次男:阿野頼高(らいこう/よりたか)
三男:阿野頼全(らいぜん/よりまさ)
四男:阿野時元(ときもと)
五男:阿野道暁(どうぎょう/みちあき)
六男:阿野頼成(らいじょう/よりなり)※ほか女子2名。阿波局との子供は時元のみ。
※名前の読みには諸説あり、ここでは便宜的に俗名をそのまま訓読みしたものと仮定。
今回は彼ら阿野全成の子供たちを紹介。それぞれどんな生涯をたどったのか、可能な限り調べてみましょう。
長男:阿野頼保(らいほう/よりやす)
別名は安野(=阿野)太郎。『尊卑分脈』に名前のみ記されており、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には登場せず、詳細不明。
今後、何か分かったら追って紹介したいと思います。
次男:阿野頼高(らいこう/よりたか)
別名は安野次郎(阿野二郎)。諱は『尊卑分脈』より。『吾妻鏡』では建保7年(1219年)2月22日に弟の阿野時元が攻められた際、
「……攻安野次郎。同三郎入道之處……」
【意訳】鎌倉の軍勢は、頼高と頼全のところ(陣地?所領?)を攻めた。
とのみ言及されています。この三郎入道(阿野頼全)は父・全成とほぼ時を同じくして殺されているので、これは彼らの旧領を指している(この時点で彼らは既に死んでいる)ものと考えられます。
また『清和源氏系図』では阿野隆光(りゅうこう/たかみつ。阿野二郎)と記され、
「阿野二郎元久四年望将軍謀及二月二十日被誅」
【意訳】阿野二郎隆光は元久4年に将軍位を望んで謀叛を企んだため、2月20日に殺された。
と記されているものの、元久は3年(1206年)までしかなく、建永2年(1207年)を指しているものと考えられます(『吾妻鏡』には記載なし)。
鎌倉殿なんて、そんなになりたいものなのでしょうか。
スポンサーリンク
三男:阿野頼全(らいぜん/よりまさ)
別名は播磨公(播磨房)。京都(『吾妻鏡』では東山、『清和源氏系図』では北山)の延年寺で修行していましたが、建仁3年(1203年)に暗殺されたことは既に紹介した通りです。
『吾妻鏡』における言及はこの件のみとなっています。父の巻き添えさえ食わなければ、生涯仏道に邁進できたかも知れませんね。
四男:阿野時元(ときもと)
『尊卑分脈』では阿野三郎隆元(たかもと)と記されています。母親が阿波局(北条時政の娘)であると明記されており、嫡男=家の跡取りであったために出家はしていません。
全成が逮捕された時は母と共に保護され、暗殺の魔手を逃れました。
しかし建保7年(1219年)に将軍・源実朝(演:柿澤勇人)が暗殺されると第4代将軍の座を望んで挙兵、あえなく討伐されてしまいます。
……阿野冠者時元〔法橋全成子。母遠江守時政女〕去十一日引率多勢。搆城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東國之由。相企云云。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月15日条
2月11日 時元が軍勢を率いて山奥に砦を築き、鎌倉殿として東国を治める宣旨を朝廷に求めたと言います。
依禪定二品之仰。右京兆被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河國。是爲誅戮阿野冠者也。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月15日条
2月19日 尼御台・政子(演:小池栄子)の命により、北条義時(演:小栗旬)が御家人の金窪兵衛尉行親(かなくぼ ひょうゑのじょうゆきちか)らを派遣しました。
發遣勇士到于駿河國安野郡。攻安野次郎。同三郎入道之處。防禦失利。時元并伴類皆悉敗北也。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月22日条
金窪兵衛尉行親らが駿河国に到着、阿野頼高と阿野頼全のところを攻めます。時元らは防ぎ切れず、ことごとく敗れてしまいます。
酉刻駿河國飛脚參着。阿野自殺之由申之。
※『吾妻鏡』建保7年(1219年)2月23日条
果たして時元らが自刃した報告が鎌倉に届いたということです。
『吾妻鏡』では実母の阿波局は(実子の死に際して)何も言っていません。単に『吾妻鏡』編者によって割愛された(記録が残らなかった)のか、あるいは保身のために口を噤んだのか、それとも親子で確執があったのかも知れませんね。
なお『吾妻鏡』では時元が謀叛を起こしたとしていますが、中には逆に「北条氏によって粛清されると聞いて慌てて兵を集めたものの、間に合わずに滅ぼされた」と見る説もあるといいます。
スポンサーリンク
五男:阿野道暁(どうぎょう)
他の兄弟たちが頼とか時とか一文字を貰っているのに、唯一最初から法号らしい名前なのは、なぜなのでしょうか。
『尊卑分脈』では駿河国岩本にて僧都(そうず。僧官の一つ)を務めたことが記されるのみで、どこの寺かなど具体的な活動は記されていません。
駿河国岩本とは阿野氏の所領から比較的近い現代の静岡県富士市岩本と思われ、この辺りに何か手がかりが残されている可能性もありそうです。
なお、道暁には智暁(ちぎょう)・仁暁(にんぎょう)・盛暁(せいぎょう/じょうぎょう)という息子がおり、仁暁にはさらに源全(げんぜん)・道仁(どうにん)という息子の存在が記録されています。
六男:阿野頼成(らいじょう/よりなり)
『尊卑分脈』には「小松原禅師」とあるのみ。
小松原という地名は千葉県鴨川市や愛知県豊橋市などいくつかありますが、小松原山鏡忍寺(鴨川市)や小松原山東観音寺(豊橋市)などにゆかりがあるのかも知れません。
終わりに・阿野全成の子孫たち
以上、阿野全成の子供たちについて紹介してきました。
『尊卑文脈』によると、時元には阿野又三郎義継(またさぶろう よしつぐ)という子がおり、更に阿野四郎義泰(しろうよしやす。依謀反被誅了=謀叛により殺された、とコメント有)という孫が記されています。
その後も阿野氏は続いたようですが次第に衰退し、南北朝時代には絶えてしまったとか。
一方で全成には娘もおり、藤原右馬頭公佐(ふじわらの うまのかみきんすけ)に嫁いだ娘が男児を産み、その子が阿野氏の名跡をついで全成の血脈を後世に伝えます。
全成 安野法橋號悪禅師依勅命建仁三年六月廿三日於下野国被誅
※『清和源氏系図』より
【意訳】阿野法橋と号する悪禅師。勅命により建仁3年(1203年)6月23日に下野国において処刑される。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での頼全は恐らくナレ死(ナレーションで殺されたことが知らされるパターン)、他の子供たちは名前すら出ないのでしょうが、新納慎也さんの演じる阿野全成をキッカケに、彼らにも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
※参考文献:
- 上田正昭ら監修『コンサイス日本人名辞典 第5版』三省堂、2008年12月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
- 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月
スポンサーリンク
コメント