鎌倉歴史文化交流館にて開催中(~令和3・2021年12月18日)の企画展「頼朝以前―源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか―」を見学させていただきました。
鎌倉と言えば幕府、幕府と言えば初代将軍・源頼朝(みなもとの よりとも)公ですが、その偉大さは幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記されています。
所素辺鄙、而海人野叟之外卜居之類少之、正当于此時間、閭巷直路、村里授号、加之家屋並甍、門扉輾軒云々……
※治承4年(1180年)12月12日条【意訳】ここ鎌倉は漁民や農民くらいしか住んでいない辺鄙な場所だったが、頼朝公が入られたことで街路がまっすぐ整備され、各地区に名前もつけられた。加えて家屋が甍を並べ、門扉が軒をめぐらせるまでの賑わいを見せたのだった……。
鎌倉は頼朝公≒幕府と共に始まり、その滅亡と共に終わった(≒以降、現代に至るまでそのイメージで食っている街)……広くそうイメージされている鎌倉ですが、言うまでもなく頼朝公以前にも鎌倉はあり、幕府滅亡後にも鎌倉はあり続けました。
そこで今回は、頼朝公が入る以前の鎌倉にスポットを当てて、紹介していきたいと思います。
旧石器時代から古墳時代まで
人間に祖先のいない人がいないように、記録の有無はともかくとして、土地にも必ず歴史があります。
鎌倉市でも旧石器時代の遺跡が発見されており、粟船山遺跡(大船地域)、玉縄城遺跡(玉縄地域)、東正院遺跡(玉縄地域)と当時鎌倉の内陸部に入り組んでいた海岸線に沿った高台に集中しています。
縄文・弥生と時代が下るにつれて海岸線が後退、その影響で遺跡の数≒人間の居住・活動範囲が広がりました。
各遺跡からは各種石器や土器、土器片錘(漁業に用いた網の重石)といった生活用具だけでなく、土偶や卜骨(ぼくこつ。占いに使う骨)、緑色岩(アオトラ石)の石斧などといった宗教具・威信財(威信を示すための財産)といった精神文化を偲ばせる遺物も出土しています。
更に時代が進んで古墳時代・奈良時代には鎌倉別(かまくらのわけ※)と呼ばれる豪族が出現、相模国(現:神奈川県の大部分。この時点では未成立)中央の相武国造(さがむのくにのみやつこ)、同西部の師長国造(しながのくにのみやつこ)と現在の神奈川県を大きく三分していたようです。
(※)鎌倉別:諸説あって倭建命(ヤマトタケルノミコト)の庶子・足鏡別王(アシカミワケノキミ)とも、その子孫一族を指すとも言われますが、その後どうなったかも含めて不詳。
この時代に入ると、現代にも鎌倉市内各地に多く残る「やぐら」の先がけ的な横穴墓(おうけつぼ)や被葬者の周囲を石で固めた石棺墓(せきかんぼ)が作られるようになり、埋葬方法や副葬品などにもバリエーションが出てきます。
特に興味深いのは洗馬谷(せんばがやつ)横穴墓群の線刻壁画で、そこには冠や宝玉で装身した被葬者(と推定される者)が船上で敵に矢を射かけて戦う雄姿が表現されており、生前の活躍・功績を讃えるために描かれたのでしょう。
詳細な記録が残されていないのが残念でなりませんが、壮大な古代ロマンを感じさせますね。
相模国の誕生・律令制下の鎌倉郡
『古事記(こじき)』によると、相模国が歴史上初めて登場するのは天武天皇4年(675年)、大和朝廷が全国的な支配体制を構築するため現地の国造たちと協力して戸籍の作成(人口管理)や検地調査(財産管理)、武器庫管理(防衛力確保)などが行われます。
行政組織も改編が行われ、行政区画としての国造は評(こおり)、やがて大宝元年(701年)には郡(こおり)に改称、ここに鎌倉郡が誕生しました。
その範囲は現在の鎌倉市だけでなく、北は横浜市の南西部と藤沢市南東部、逗子市全域に葉山町北部を含んでおり、旧郡域の史料などを調べると「鎌倉郡」の文字が登場することもしばしばあります。
ちなみに、この鎌倉郡は昭和23年(1948年)6月1日に最後まで鎌倉郡を称していた大船町(現:鎌倉市大船・玉縄地域)が鎌倉市に編入されたことで消滅。1200年以上にわたる歴史に終止符を打ったのでした。
鎌倉の地名が初めて歴史上に出て来るのは奈良時代、正倉院文書の一つ「相模国封戸租交易帳」の中に「鎌倉郡鎌倉郷」という記述が出てくるほか、日本最古の和歌集『万葉集(まんようしゅう)』にも鎌倉を詠んだ歌が伝わっています。
鎌倉の 見越(みごし)の崎の 石(いわ)くえの 君が悔ゆべき 心は持たじ
まかなしみ さ寝に吾(わ)は行く 鎌倉の 美奈の瀬(みなのせ)川に 潮満なむか
薪(たきぎ)樵(こ)る 鎌倉山の 木垂る木を まつと汝が言はば 恋ひつつやあらむ
※いずれも詠み人知らず
また、鎌倉郡の者(上丁丸子連多麻呂)が詠んだ防人歌なども収録され、往時の情景が目に浮かぶようです。
難波津に 装(よそ)い装いて 今日の日や 出でて罷(まか)らん 見る母なしに
奈良時代には鎌倉郷の郡衙(ぐんが。郡の役所)も設置され、現在の鎌倉駅前から発掘された遺構の規模から、政治・交易の要衝として発展したことが窺われます。
しかし、宝亀2年(771年)に東海道のルート変更(※)がなされたことにより、ルートから外れた鎌倉郡は律令制下における勢力を失っていったのでした。
(※)従来の大住国府(現:神奈川県平塚市)から藤沢駅(同藤沢市)~鎌倉郡衙~葉山駅(現:同葉山町)を経て東京湾を渡って上総国(現:千葉県中部)へ至るルートから、大住国府から北上して国分寺(現:同海老名市)を経て武蔵国(横浜市北東部・川崎市、東京都+埼玉県)方面へ抜けるようになったそうです。
鎌倉が「源氏相伝の地」となるまで
古くから人々の営みがあり、律令制下で交通の要衝として発展した鎌倉郡衙。東海道から外れたものの、完全に廃れていった訳ではありません。
鎌倉の語源とも言われる「三方を山に囲まれ、南に海が開けた」かまどのような地形は攻守にすぐれ、武士たちが盤踞する本拠地としてすぐれたポテンシャルが認められたようです。
平安時代中期の天延元年(973年)に相模介となった平維将(たいらの これまさ)は代々鎌倉を領していましたが、やがて長元9年(1036年)に源頼義(みなもとの よりよし)が相模守となって下向してくると、維将の孫・平直方(なおかた)は頼義を婿に迎えると共に、鎌倉の地を譲りました。
以来、鎌倉は「源氏相伝の地」となり、頼義-義家(よしいえ)―為義(ためよし)―義朝(よしとも。頼朝公の父)と受け継がれていきます。
だからこそ頼朝公は合理的にすぐれていたのみならず、父祖伝来の地である鎌倉をこそ本拠地に選んだのですが、かつて父の館が建っていた扇ガ谷(おうぎがやつ)は土地が狭く、また父の敗死後はその菩提を弔う草堂が建てられていたことなどから、大倉の地(現:鶴岡八幡宮より北東)を御所に定めたのでした。
以上、ごくざっくりと鎌倉の「頼朝前史」を紹介して来ました。繰り返しになりますが、鎌倉は頼朝公以前から存在していたし、幕府が滅んだ後も(当然ながら、今も)存在しているのです。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でにわかに脚光を浴びつつあるものの、歴史ファンの中では比較的関心層の薄めな平安~鎌倉時代に興味を持って欲しいと共に、それ以外の時代の鎌倉にも目を向けて頂けると、地元民としてはとても嬉しく思います。
【Information】
企画展「頼朝以前―源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか―」
【期間】令和3年(2021年)9月25日(土)~12月18日(水)
【開館】10:00~16:00(入館は15:30まで)
【休館】日曜・祝日
【主催】鎌倉歴史文化交流館(鎌倉市文化財課・鎌倉市教育委員会)
【料金】
一般300円(210円)/小中学生100円(70円)
※()内は20名以上の団体料金
※鎌倉市内の小中学生と65歳以上の高齢者、また障害者手帳の交付者とその介助者1名は無料(受付で証明書類を提示のこと)
鎌倉市/企画展「頼朝以前―源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか―」開催のご案内
※参考文献:
- 『頼朝以前―源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか―』鎌倉歴史文化交流館、2021年9月
- 川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年1月
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