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11倍の兵力差だが…源頼朝と大庭景親の対決!石橋山合戦【鎌倉殿の13人】

平安時代
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時は治承4年(1180年)8月17日、平氏討伐の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)公。

初戦の山木兼隆(やまき かねたか)討伐に勝利を収め、東へ兵を進めた行く手を阻むのは「東国の御後見」大庭景親(おおば かげちか)。

勝川春亭「石橋山合戦」

8月23日に両軍が対決しますが、頼朝公は散々に撃ち破られてしまいます。

世に言う「石橋山の戦い(石橋山合戦)」について、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』はどのように伝えているのでしょうか。

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300対3,300……石橋山に集結する両軍の顔ぶれ

治承4年(1180年)8月23日癸卯。この日は曇りで、夜になって土砂降りの雨になりました。

歌川国芳「名高百勇傳 源頼朝」

寅の剋(午前2:00~6:00)ごろに頼朝公は兵300騎を率いて相模国石橋山に布陣。その主要メンバーは以下の通りです。

北条四郎時政(ほうじょう しろうときまさ)
北条三郎宗時(さぶろうむねとき。時政の長男)
北条小四郎義時(こしろうよしとき。時政の次男)
北条平六時定(へいろくときさだ。時政の弟?)
小野田藤九郎盛長(おのだ とうくろうもりなが。後の安達盛長)
工藤介茂光(くどうのすけ もちみつ。伊東祐親の義兄弟)
工藤五郎親光(ごろうちかみつ。茂光の子)
宇佐美三郎助茂(うさみ さぶろうすけもち。工藤祐経の弟)
宇佐美平太正光(へいたまさみつ。助茂の子?)
宇佐美平次実政(へいじさねまさ。正光の弟?)
岡崎悪四郎義実(おかざき あくしろうよしざね)
佐奈田与一義忠(さなだ よいちよしただ。義実の子)
土肥次郎実平(どひ じろうさねひら)
土肥弥太郎遠平(やたろうとおひら。実平の子)
土屋三郎宗遠(つちや さぶろうむねとお。実平の弟)
土屋次郎義清(じろうよしきよ。岡崎義実の子で宗遠の養子)
土屋弥太郎忠光(やたろうただみつ。宗遠の子)
中村太郎景平(なかむら たろうかげひら。実平の甥)
中村次郎盛平(じろうもりひら。実平の甥)
加藤五景員(かとう ごかげかず)
加藤太光員(かとう たみつかず。景員の子)
加藤次景廉(かとう じかげかど。景員の子)
中四郎惟重(ちゅうしろう これしげ。中原惟重)
中八惟平(ちゅうはち これひら。中原惟平)
小中太光家(こちゅうた みついえ。中原光家)
大庭平太景義(おおば へいたかげよし。大庭景親の兄)
豊田五郎景俊(とよだ ごろうかげとし。大庭景親の弟)
佐々木太郎定綱(ささき たろうさだつな)
佐々木次郎経高(じろうつねたか。定綱の弟)
佐々木三郎盛綱(さぶろうもりつな。定綱の弟)
佐々木四郎高綱(しろうたかつな。定綱の弟)
天野藤内遠景(あまの とうないとおかげ。工藤茂光の娘聟)
天野六郎政景(ろくろうまさかげ。遠景の子)
天野平内光家(へいないみついえ。遠景の弟)
仁田四郎忠常(にった しろうただつね)
堀藤次親家(ほり とうじちかいえ)
堀平四郎助政(へいしろうすけまさ)
鮫島四郎宗家(さめじま しろうむねいえ)
鮫島七郎武者宜親(しちろうむしゃ のぶちか)
大見平次家秀(おおみ へいじいえひで)
近藤七国平(こんどう しちくにひら)
平佐古太郎爲重(ひらさこ たろうためしげ)
那古谷橘次頼時(なごや きつじよりとき)
澤六郎宗家(さわ ろくろうむねいえ)
義勝房成尋(ぎしょうぼう じょうじん)
新藤次俊長(しんとうじとしなが。藤井俊長)

これに家人や郎党など名前の記されていない者たちをまとめて300名ほど。

旗頭には以仁王(もちひとおう)殿下より奉戴した令旨を結びつけて高々と掲げ、大庭景親の軍勢と対峙しました。

「東国の後見」大庭景親。年恒「石橋山合戦之図」より

一方、大庭景親は東国の後見たる威信をかけて動員した兵3,000騎。主要メンバーは以下の通りです。

大庭三郎景親
俣野五郎景久(またの ごろうかげひさ。景親の弟)
河村三郎義秀(かわむら さぶろうよしひで)
渋谷庄司重国(しぶや しょうじしげくに)
飯田五郎家義(いいだ ごろういえよし。重国の子で、景親の娘婿)
糟屋権守盛久(かすや ごんのかみもりひさ)
海老名源三季貞(えびな げんざすゑさだ)
曾我太郎助信(そが たろうすけのぶ)
山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし。頼朝公の乳兄弟)
毛利太郎景行(もうり たろうかげゆき)
長尾新五爲宗(ながお しんごためむね)
長尾新六定景(しんろくさだかげ。爲宗の弟)
原宗三郎景房(はら むねさぶろうかげふさ)
原四郎義行(しろうよしゆき。景房の弟?)
熊谷次郎直実(くまがい じろうなおざね)

このうち飯田家義は頼朝公と内通していましたが、現時点ではまだ平氏方についています。

また、頼朝公の背後からは伊東祐親(いとう すけちか)が300余騎を率り、大庭景親との挟み撃ちを狙っていました。

散々に蹴散らされ、敗走する頼朝公

「えぇい、三浦はまだか!」

頼朝公は当初、東から駆けつける三浦の軍勢と連携して大庭景親の軍勢を東西から挟み撃ちにしようと計画していました。

しかし三浦は丸子川(酒匂川)の洪水によって足止めを食っており、仕方なく近くにあった大庭一族の家屋を焼き払って気勢を上げるばかりです。

その炎や煙は石橋山から見えたほど盛んで、三浦がすぐそこまで迫っていたことを知った景親は、洪水が引く前に頼朝公との短期決戦に臨みました。

対する源氏方は正面から当たっては勝ち目がないため、何とか山中に引きずり込み、ゲリラ戦で対抗しようと挑発します(『平家物語』より)。

北条時政「お前の祖先・鎌倉権五郎景正(かまくら ごんごろうかげまさ)は頼朝公の祖先である源義家(よしいえ。八幡太郎)に仕えていたではないか。さっさと軍門に降れ」

しかし景親はこれに反論。

「昔は昔、今は今、恩こそ主よ。景親は平家の御恩を蒙ること、海より深く、山より高し」

【意訳】いつまでも昔のことを。海よりも深く、山よりも高い御恩のある平家こそが我が主君である。

挑発に失敗した源氏方は挟み撃ちに遭って惨敗。この戦闘で佐奈田余一義忠やその郎党である武藤三郎(むとう さぶろう)、豊三家康(ぶんぞういえやす)らはじめ、多くの将士が討死しました。

劣勢にも怯まず武勇を奮う佐奈田義忠。歌川芳艶「武勇高名組討選」

「このまま一気に攻め滅ぼせ!」

猛然と追い立てる大庭景親の前に、飯田家義が手勢6騎を率いてその行く手を阻みます。

「おのれ飯田、裏切りおるか!」

「佐(すけ。頼朝)殿、ここはそれがしが食い止め申すゆえ、早うお逃げ下され!」

「かたじけない!」

飯田家義らの時間稼ぎによって、頼朝公らは這々(ほうほう)のていで椙山(すぎやま)へと逃げ込んだのでした……。

終わりに

治承四年八月小廿三日癸卯。陰。入夜甚雨如沃。今日寅尅。武衛相率北條殿父子。盛長。茂光。實平以下三百騎。陣于相摸國石橋山給。此間以件令旨。被付御旗横上。中四郎惟重持之。又頼隆付白幤於上箭。候御後。爰同國住人大庭三郎景親。俣野五郎景久。河村三郎義秀。澁谷庄司重國。糟屋權守盛久。海老名源三季貞。曾我太郎助信。瀧口三郎經俊。毛利太郎景行。長尾新五爲宗。同新六定景。原宗三郎景房。同四郎義行。并熊谷次郎直實以下平家被官之輩。率三千餘騎精兵。同在石橋邊。兩陣之際隔一谷也。景親士卒之中。飯田五郎家義。依奉通志於武衛。雖擬馳參。景親從軍列道路之間。不意在彼陣。亦伊東二郎祐親法師率三百餘騎。宿于武衛陣之後山兮。欲奉襲之。三浦輩者。依及晩天。宿丸子河邊。遣郎從等。燒失景親之黨類家屋。其煙聳半天。景親等遥見之。知三浦輩所爲之由訖。相議云。今日已雖臨黄昏。可遂合戰。期明日者。三浦衆馳加。定難喪敗歟之由。群議事訖。數千強兵襲攻武衛之陣。而計源家從兵。雖難比彼大軍。皆依重舊好。只乞効死。然間。佐那田余一義忠。并武藤三郎。及郎從豊三家康等殞命。景親弥乘勝。至曉天。武衛令逃于椙山之中給。于時疾風惱心。暴雨勞身。景親奉追之。發矢石之處。家義乍相交景親陣中。爲奉遁武衛。引分我衆六騎。戰于景親。以此隙令入椙山給云々。

※『吾妻鏡』より

かくして石橋山の合戦は頼朝公の惨敗に終わりました。

治承4年(1180年)8月23日の記述はですが、もちろんこれで引き下がる大庭景親ではなく、全軍挙げての山狩りが始まります。

木の洞へ逃げ込んだ頼朝公ら。年恒「石橋山合戦之図」より

果たして頼朝公の運命は……もう皆さんご存じですよね。そもそも石橋山の合戦についても有名なので、改めておさらいという方も多かったことでしょう。

好評放送中の令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、この戦いを三谷幸喜がどのように描くのか、第5回「兄との約束」を楽しみにしています。

※参考文献:

  • 竹宮惠子『マンガ日本の古典14 吾妻鏡 上』中公文庫、2000年5月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月

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