人間、つまらぬ勘違いから人を誤解し、取り返しのつかない失態を犯してしまうことは決して少なくありません。
特に余裕がない時ほど、物事を悪い方へ悪い方へ決めつけてしまいがちで、ますます焦り、破滅へと突き進んでしまった事例は枚挙に暇がないものの、いざ自分がそうなってみると、なかなか冷静には立ち直りにくいものです。
今回はそんな一人、平安時代末期に源平合戦で活躍した藤原景清(ふじわらの かげきよ)のエピソードを紹介したいと思います。
壇ノ浦から落ち延びて、叔父に匿ってもらう
景清は藤原忠清(ただきよ。伊藤忠清)の子として誕生、平清盛(たいらの きよもり)に仕えて武勇をあらわし、悪七兵衛(あくしちびょうゑ。悪=憎らしいほど強い、兵衛尉の位をもつ七男)の二つ名で恐れられました。
平家の全盛期を支えたのみならず、清盛亡き後も都落ちする平家に従う忠臣であったことから、平の姓を賜ったとも、忠義を称える人々から「平家一門に相応しい」と呼ばれたとも言われ、平景清の別名でも知られています。
屋島の合戦(寿永4・1185年2月19日)では敵将・美尾屋十郎廣徳(みおや じゅうろうひろのり)の錣(しころ。兜の後頭部から項を守る部分)を素手で引きちぎった「錣引き」でも名を上げた景清ですが、壇ノ浦の合戦(同年3月24日)に平家一門が滅ぶと、御家再興を志して潜伏。
数年に渡って各地を逃げ延びていた建久5年(1194年。※文治5・1189年説もあり)、摂津国水田(現:大阪市東淀川区)に禅道場を開いていた叔父・大日房能忍(だいにちぼう のうにん)に匿ってもらいます。
「おぉ、あの悪七が立派になって……勝敗は武門の常なれば、存分に戦った以上、何も恥じ入ることはない。ここなら何人たりともそなたに手は出せぬゆえ、しっかりと鋭気を養い、志を果たすのじゃぞ」
「叔父上、忝(かたじけな)い……!」
久しぶりの安堵感にすっかり羽根をのばし、ゆったりとくつろいでいた景清ですが、しばらくすると、どこからともなく声が聞こえて来ました。
「打つ」を「討つ」と勘違い
「……うつのじゃ……」
(討つ!?)
寺院にふさわしからぬフレーズに驚いた景清は、愛刀の痣丸(あざまる)を持って声のする方へと忍び寄ります。どうやら、声は庫裡(くり。寺の台所)からしているようです。
「この声は、叔父上……?」
景清は戸板一枚を隔てて耳を澄ませ、叔父の声をはっきりと確認しました。
「……かげきよが……だから……わしが……うつのじゃ……」
(そうか、叔父上は我を油断させ、隙をついて討とうとしておったのか……おのれ!)
「許せぬ!」
瞬時に頭へ血が上った景清は、引戸を開けるのももどかしく蹴破ったかと思ったら、次の瞬間、叔父を一刀の下に斬り捨てていました。
「出家の分際で恩賞に目が眩んだか!この売僧め!」
その手には麺棒が握られており、調理台の上には練った粉の塊が鎮座しています。
「ん。これは蕎麦か……?」
「あぁ、何ということを……!」
近くで腰を抜かしていた僧侶が、震える声で言いました。
「今宵はそなたの好きな蕎麦を振る舞いたいと、和尚様が手ずから打とうとされていたのに……!」
それを聞いて、景清は勘違いに気づきました。叔父は自分を「討つ」のではなく、蕎麦を「打つ」と言っていたのです。
「おぉ……我は何と言うことを!」
後悔しても既に叔父の息はなく、血に濡れた愛刀が、もはや取り返しのつかないことを告げるばかり。
「叔父上!お許し下され……っ!」
幼い頃から可愛がってくれた叔父をつまらぬ勘違いで殺してしまった景清は、泣きながら池の水で愛刀を洗いました。
この故事から、その池は涙池と呼ばれるようになり、昭和時代に埋め立てられて現在は小松公園となっています。
(※ただし、近年の研究により能忍の死因は事故または病気との説が有力になっているそうです)
エピローグ
その後も逃避行を続けた景清は結局捕らわれてしまい、身柄を預けられた御家人・八田知家(はった ともいえ)の館で「源氏の施しは受けたくない」と絶食、とうとう餓死したと言われています。
他にも「源氏の世を見たくない」と自分で目玉をえぐり出してしまったとも言われ、よほど源氏が嫌いだったか、平家への忠義に篤かったか、あるいは多分その両方だったのでしょう。
逃げ回った各地でさまざまな伝説を残した景清のエピソードは、彼の死後も能や幸若舞、人形浄瑠璃や歌舞伎、落語など様々な「景清物」として伝えられ、今なお多くの人々から愛されているようです。
※参考文献:
稲垣泰平『シリーズわがまち 淀川右岸を散歩して「歴史散歩」の記録』文芸社、2008年4月
杉本圭三郎『新版 平家物語 全訳注 四』講談社学術文庫、2017年7月
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