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【歴史旅】結ばれなかった二人の絆…木曽義高の墓(常楽寺)にお参りしてきた【鎌倉殿の13人】

歴史旅
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幼くして鎌倉へ人質に出され、間もなく父・木曽義仲(演:青木崇高)を討たれてしまった源義高(みなもとの よしたか。清水冠者)

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では市川染五郎さんが好演する木曽の貴公子。眉目秀麗のみならず、ここ一番では立派に武士の覚悟を魅せていました。

義高「万寿(後の源頼家)様は私がお守りいたします……主に刃を向ける者を許すわけにはいかぬ!」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15回放送「足固めの儀式」より

その勇姿には、許婚の大姫(演:落井実結子)はじめ女性陣が魅了されていましたね。

しかし、義仲が源頼朝(演:大泉洋)と敵対したことによって義高の立場は悪化。自分を暗殺する計画を知った義高は、大姫の手引きによって鎌倉を脱出しました。

大姫の手引きで女装・脱出する義高。歌川国貞筆

「冠者殿が逃げたぞ!追え!」

必死の逃走もむなしく、義高は元暦元年(1184年)4月26日、入間河原(現:埼玉県狭山市)で討ち取られてしまいます。

最愛の義高を喪ったショックによって大姫は病床に伏せってしまい、20歳で夭折するまでの13年間、いかなる縁談も拒絶し続けました。

父親の政略によって義高と結ばれたのを、勝手な事情で引き裂かれ、その傷も癒えぬ内に縁談を持ち込まれる日々……さぞ辛かったことでしょう。

木曽義高の墓。住宅地の片隅にたたずんでいる。筆者撮影

今回は、そんな非業の最期を迎えた義高の墓にお参りしてきました。近くにある姫宮塚(ひめみやづか。一説には大姫の墓)も一緒に。

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常楽寺の裏山・住宅地の片隅に

さて、義高の墓は鎌倉市大船・常楽寺(じょうらくじ)裏山にあります。

常楽寺はJR大船駅から徒歩15分ほど、鎌倉時代前期の嘉禎3年(1237年)に鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)が開基となって建立されました。

境内には北条泰時の墓があり、その裏手の細道を登っていくと、山の中腹に木曽塚(義高の墓)が見えてくるでしょう。

義高の墓。元服したとは言え、満11歳で世を去った義高はまだまだ子供。鯉のぼりが供えられています。筆者撮影

※山の裏側から到着するルートもありますが、そっちは説明がややこしいため、土地勘のない方は正面からがおすすめです。

さて、木曽塚には義高の墓石と手水鉢、由緒を記した石碑が建てられています。

木曽冠者義高之塚

義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル 爾来頼朝ノ養フ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル

塚ハ元此地ノ西南約二町木曽免トイフ田間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻ヲ伝ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ場ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ

大正十五年一月  鎌倉同人會 建

【意訳】義高は義仲の長男である。かつて義仲が頼朝に攻められた折、義高を人質として鎌倉に送ることで和議が成立。

以来、義高は頼朝に養われ、その娘(大姫)を妻とする。のちに義仲が粟津で討たれると脱走、入間河原で斬られた。

この塚は元々ここから2町(約218メートル)ほど南西の場所にあり、その辺りは木曽免と呼ばれていたが、延宝年間(1673~1681年)に塚を現在地に移したという。

旭将軍と呼ばれた義仲の短くも痛快な生涯を偲ぶよすがとして、数奇な運命にもてあそばれた薄命の貴公子・義高の首級はここで永き眠りについているのである。

※現地建立の碑文。意訳は筆者による
木曽塚の移転経緯。もともと大船は昭和初期ごろまでほぼ一面田んぼだった。Googleマップより

……以前はほとんど参詣客もなく、住宅地の片隅にひっそりと建っていた義高の墓。しかし近ごろは大河ドラマの人気によって献花やお供物が絶えず、ありがたい限りです。

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大姫の墓かも?姫宮塚と粟船稲荷

さて、義高の墓と少し離れたところにあるのは姫宮塚(ひめみやづか)と粟船稲荷(あわふねいなり)。北条泰時の娘を葬ったと言われていますが、木曽塚との近さから大姫の墓とする説も。

手前が姫宮塚、奥に粟船稲荷。筆者撮影

(でも、もし大姫の墓であるなら、ピッタリ隣に祀ってあげて欲しい気もしますね)

粟船稲荷は、常楽寺の山号(さんごう。山の名前)である粟船山(あわふねやま/ぞくせんざん)の守り神。この辺りの地名である大船(おおふな)は、元々この粟船が訛ったと言われています。

互いに想い合いながら結ばれなかった二人の絆を偲ぶよすがとして、是非ともお参りいただけたら幸いです。

※参考文献:

  • かまくら春秋社 編『鎌倉の寺 小事典』かまくら春秋社、2002年6月
  • 槇野修『決定版 鎌倉の寺社122を歩く』PHP新書、2013年1月

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