江戸幕末から明治時代にかけて活躍した「最後の浮世絵師」月岡芳年(つきおか よしとし。天保10・1839年生~明治25・1892年没)。
躍動感あふれるキャラクター描写に定評がある一方、血みどろな無惨絵を多く手がけたことから「血まみれ芳年」の二つ名で呼ばれます。
歴史画や武者絵、美人画など多くのテーマで作品を生み出した芳年。今回はその中から、江戸幕末の英雄たちを描いた「競勢酔虎傳(けいせいすいこでん)」を紹介。
(※)読みは曲亭馬琴『傾城水滸伝(鎌倉時代、天下を壟断する遊女亀菊および北条義時と戦う女性たちの冒険活劇。もちろん創作)』からとっているものの、内容は無関係です。
ここでは英雄の一人・窪田萬治(くぼた まんじ)について見ていきましょう。果たして彼は、何者なのでしょうか。
勇将の下に弱兵なし
「競勢酔虎傳 窪田萬治」
和哥松家の兵隊中世より
知ら連たる一個の武夫。宿直の昧來躁然と四方丹ひゞく
鯨の声。發砲頻りに聞えし■バ。
事こそ■■ど一騎駈たり雷發なりたる勢ひ丹。續て一藩功を遂しハ。
洛中保護の美挙なりとて。厚く
恩賞ありしとかや、
【意訳】古来「勇将の下に弱い兵士はいない」と言う。彼もその例に洩れず、身分こそ低いが若松家(会津藩)でも名の知れた豪傑であった。
会津藩が京都守護職であったころ、萬治が宿直を務めていると、にわかに鬨の声があがり、四方から銃声が響く。
萬治は真っ先に駆け出して賊へ向かい、一番駆けの手柄を立てた。これは会津藩の名誉として厚く恩賞にあずかったという。
……以上、窪田萬治に関する記述はこれだけです。
「競勢酔虎傳」には全体を貫くストーリーがなく、個々の英雄について端的なエピソードが紹介されているだけなので、ここから考察するよりありません。
文中「和哥松家の兵隊」とは恐らく武士ではなく足軽身分であったようです(それでも勇敢であったことが強調されています)。
また、この鬨の声や発砲が誰によるものかは分かりませんが、そこへ立ち向かったことで恩賞にあずかっているため、恐らく長州など京都を騒がせる反幕勢力だったのでしょう。
絵は俊敏な身のこなしで敵に突撃し、一番槍の手柄を立てた様子がいきいきと描かれていますね。
窪田萬治についてはなかなか情報が出てこないものの、彼のことですから、ますます武功を重ねたことでしょう。
禁門の変や戊辰戦争、そして会津戦争の時、彼がどんな活躍をしたのかとても興味深いです。
非常にマイナーな人物ながら、歴史に埋もれた彼ら一人々々の活躍も発掘・発信したく思います。
※参考:
- 月岡芳年(大蘇芳年)「競勢酔虎傳 窪田萬治」
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