「この橋、何て読むの?」
靖国神社へ向かう道中、友人から質問がありました。
カタカナのメを二つ重ねた「へん」に、且の「つくり」。
これは「まないた」と読みます。人を二つ重ねた「へん」で俎と書くことも多いです。
今回はこの「爼橋(俎橋。まないたばし)」について、その歴史を紹介したいと思います。
俎橋の歴史・起源は江戸時代初期か?
爼橋の起源について定かではありませんが、徳川家康によって江戸の街が開発された戦国時代末期から江戸時代初期と考えられます。
(もちろん、それ以前からかかっていた可能性もあるでしょう。この辺りが埋め立てられた土地なら、高確率で江戸初期でしょう)
最初は簡素な板の橋だったらしく、その板がまな板のように見えたか、あるいは近くに台所町(現代の飯田橋2丁目)があったからなどと言われています。
東側には武家屋敷が集まり、西側は飯田町と呼ばれました。当時は道もあまり大きくなかったため、往来も少なかったそうです。
寛文4年(1664年)には俎河岸(まないたがし)ができたことから、江戸の運河を運ばれた物資の荷揚げ場所とされました。
やがて明治時代に入ると東側の武家屋敷が立ち退いて神保町へ続く直進道路が整備されます。
そして明治37年(1904年)に東京市電が開通したことで、交通の要衝として発展しました。
大正12年(1923年)の関東大震災後は復興事業の一環として再開発が進められ、昭和4年(1929年)12月には長さ24.5m・幅42mという鉄筋コンクリートの立派な充腹アーチ橋に生まれ変わります。
合わせて現代の靖国通りに当たる大正通りも拡幅され、ほぼ現代の姿となりました。
敗戦後の昭和42年(1967年)には俎橋の上空に首都高が通るようになり、昭和58年(1983年)にかけ直されて現代に至ります。
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終わりに
以上、俎橋の歴史を駆け足で振り返ってみました。
もし近くを通る時は、かつてこの辺りで活動していた水運業者や武士たちに想いを馳せてみると、東京散策も楽しめるのではないでしょうか。
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