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確かに「人斬り包丁」とも言うけれど…戦国時代、日本刀を使った?料理3選を紹介

伝承民俗
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優美さと実用性が調和した美術性から、日本国内は元より世界各国でも人気を集めている日本刀。

詳しいことは知らなくても、ただ見ているだけでうっとりしてしまう刀剣ファンも多のではないでしょうか。

しかし、いくら美しいと言っても、その本質的用途はあくまでも「人を斬る=殺す」こと。中には「人斬り包丁(ほうちょう)」などと表現する方もいます。

まぁ確かに人間を「料理」すると言えなくもありませんが、包丁と言うのであれば、日本刀を調理に使った食べ物は存在するのでしょうか。

そこで今回は、戦国時代の日本刀料理(?)について調べてみたので、紹介したいと思います。

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伊達政宗が陣太刀で作った?仙台名物「ずんだ」

茹でた枝豆をペースト状に潰して作る東北地方の郷土料理「ずんだ」。青々しい香ばしさと大豆由来のやさしい甘みとコクで人気ですが、その由来は「独眼竜」のイメージで有名な戦国大名・伊達政宗(だて まさむね)が作ったとも言われています。

一説によれば茹で上がったもののまだ硬い枝豆を食べやすくしようと、政宗が陣太刀(じんだち)を抜いて叩き潰した事から、陣太刀の東北訛り「ずんだつ」が縮まって「ずんだ」と呼ばれるようになったのだとか。

しかし陣太刀は総大将の証であり、また軍神の加護を祈願する上でその依代(よりしろ)ともされる神聖なものですから、調理器具として使ったら罰が当たりそうなもの。

命を賭ける戦さ場で、ことさら験(げん。縁起)を担ぐ武士がそんなことをするとは思えません。なのでこの説は根拠が薄そうですが、それでも根強く信じられているのは、それだけ政宗が人気ということなのでしょう。

陣太刀(ずんだつ)で枝豆をずんだずんだ(ズタズタ)にしたから「ずんだ」?

「ずんだ」の語源として有力なのは、豆を打つ「ずだ(豆打)」や打ち続ける内に大豆の油がしみ出して「ずんだずんだ」と粘りが出てくる様子。しかしどの説にもこれと言った根拠がないそうで、そのことも「政宗の陣太刀」説を後押ししているようです。

そのほか政宗がらみの説としては、甚太(じんた)という百姓が考えて政宗に献上した「じんた餅」に由来するとも言われており、民からも愛された政宗の人気ぶりがうかがわれますね。

武田信玄が宝刀で作った?甲州名物「ほうとう」

「美味いもんだよ、カボチャのほうとう」……山梨県人なら一度は口にしたことがあろうこのセリフ。

甲州を代表する名物の一つ「ほうとう」。かつて土地が瘦せていたため、米づくりに不向きだった甲斐国では麦をはじめとする「粉もの文化」が発展しました。

そこで麺を打った時、戦国大名・武田信玄(たけだ しんげん)が伝家の宝刀(ほうとう)を持ち出して麺を切ったことから「ほうとう」と呼ばれた……と言われているそうですが、前述した政宗の陣太刀と同じく、そんな罰当たりなことをするとはとても思えません。

「ほれ、ほうとう煮えたで食ってけし」

「ほうとう」の語源として有力な説は中国大陸から渡来した「餺飥(はくたく。はうたう)」と呼ばれる麵料理、あるいは麦を叩(はた)いて作った粉を原料にした料理「はたきもの」が変化したとも言われています。

他には麺を打って煮込んでしまえば時間が出来るので、そのヒマに「放蕩(ほうとう。遊びほうけること)」が出来るので「ほうとう」……という説もあるようですが、家事は料理だけではない=忙しいし、そもそも火の側を離れるのは危ないのでたぶん違うでしょう。

また大河ドラマ「風林火山(平成19・2007年放送)」の影響なのか、近ごろではほうとうを「勘助の知恵(考案?)」と紹介する商品(例:山本の勘助ほうとう)も見られました。信玄公に仕えた名軍師・山本勘助(やまもと かんすけ)の人気もうかがえます。

織田信長が荒木村重にご馳走した「まんじゅう」

政宗の「ずんだ」に信玄の「ほうとう」……いずれも日本刀には関係なさそうですが、今度は織田信長(おだ のぶなが)が家臣の荒木村重(あらき むらしげ)にご馳走した「まんじゅう」。これはどうでしょうか。

……(前略)……上洛の際(おり)荒木村重逢坂(おうさか)に出迎へ織田家に随身し請ふて摂津守たらんとて信長佩刀(はいとう)に饅頭を貫き村重が目先に出(いだ)すを悠然として是を食して信長其(その)膽力(たんりょく)を賞し摂津守となさり……(後略)……

※月岡芳年「本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長」より。

【意訳】信長が上洛した時、逢坂の関まで出迎えた荒木村重は「私に摂津国(現:大阪府北部。の攻略)をお任せ下されば、命を惜しまず戦います」と申し出た。そこで信長は自分の刀で饅頭を貫き、「命を惜しまぬなら、これを食ってみせろ」と突き出す。しかし村重は恐れることなく饅頭を平らげたので、信長はその度胸を感心して摂津国を任せた。

月岡芳年「本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長」

これも本当にあったのかどうか、あるいは「信長ならそのくらいはやりかねない」「村重の英雄ぶりを世に広めたい」などと言った思いから創られた物語かも知れません。

ただ村重の度胸はともかくとして、近年の研究で信長は「意外に?人格者だった」とされており、従来のイメージは徐々に変わりつつあるようです。

紹介しておいて何ですが、これも日本刀を使った「料理」とはちょっと違いますね。

終わりに

腰の刀は 何のため 人を斬るため 殺すため(七五七五)

とかく戦国時代はワイルドだったイメージがあり、武士たちも何かと刀をすっぱ抜いて包丁や爪楊枝?の代わりに使っただろうと思われたことから、このような伝承が生まれたのでしょう。

しかし刀はここ一番で敵を斬り、自分の身を守るためのもの。平素ぞんざいに扱っているようでは、いざ有事に後れをとるどころか、命さえ落としかねません。

「また、つまらぬものを斬ってしまった」

ましてや時代が下り、刀が単なる兵器ではなく武士の魂を宿す象徴ともなれば尚更ありえないこと。

こういう伝承が生まれるのは、万が一でも刀に命を託す可能性のあった武士の世が終わったことを示しており、「平和で何より」の一言に尽きます。

古来「餅は餅屋」と言うとおり、食材を切るのは包丁で、人を斬るのは刀で?と、きちんと使い分けたいところですね。

※参考文献:

  • 川和二十六『戦国時代 100の大ウソ』鉄人文庫、2018年4月
  • 山梨県『山梨県史 民俗編』山梨日日新聞社、2003年3月
  • 山梨県立博物館 編『甲州食べもの紀行 山国の豊かな食文化』山梨県立博物館、2008年10月

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