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【前編】戦後29年間、小野田寛郎かく闘えり【映画「ONODA 一万夜を越えて」】

昭和時代
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昭和20年(1945年)8月15日。大日本帝国の降伏をもって、4年弱の長きにわたる大東亜戦争は終わりを告げた……誰もがそう思っていた中、本土から遠く離れた南の孤島で作戦任務を継続し、最後の一人になるまで闘い抜いた陸軍少尉・小野田寛郎(おのだ ひろお)

孤立無援、完全に敵の掌中に制圧された状況下で飢えをしのぎ、孤独と絶望に苛まれながらもゲリラ戦を続け、ついには日本へ生還した英雄の生涯を、今回はたどってみたいと思います。

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「玉砕は絶対に許さん」任務を帯びてルバング島へ

小野田寛郎は大正11年(1922年)3月19日、和歌山県会議員の小野田種次郎(たねじろう)と、教師をしていた小野田タマエの子として和歌山県海草郡亀川村(現:和歌山県海南市)に生まれました。

学生時代は剣道に打ち込んで選手として活躍、中学校を卒業すると貿易企業の田島洋行に入社、中華民国の漢口(現:湖北省武漢市)支店に勤務します。

やがて昭和17年(1942年)12月、満20歳を迎えた寛郎は徴兵検査を受けて見事に現役合格、和歌山歩兵第61連隊に入営し、着実にキャリアを積み上げていきました。

弟の滋郎(左)と一緒に。Wikipediaより

ちなみに、長兄の小野田敏郎(としお)は陸軍軍医中佐、次兄の小野田格郎(かくお)は陸軍主計大尉、弟の小野田滋郎(しげお)は陸軍少尉といずれも将校(幹部)として各分野で活躍。寛郎も負けてはおれぬと意気込んだことでしょう。

そんな寛郎は昭和19年(1944年)9月に特殊部隊の養成施設である陸軍中野学校二俣分校(現:静岡県浜松市)へ入校、戦況苦しい折でもあったため、スパイ・ゲリラの技術を速成で叩き込まれます。

当時、軍人と言えば「生きて虜囚の辱しめを受けず(訳:捕虜になるくらいなら潔く死ね)」で有名な戦陣訓(せんじんくん)を地でいくような教育がなされたものですが、陸軍中野学校は正反対に

「どんな汚名も耐え忍んで生き延びて、必ず任務を遂行してこそ中野魂である」

との教育方針で、これが寛郎の運命を左右したのかも知れません。

そして同年12月、ついにフィリピンへ派遣されることとなった寛郎は、日本を離れる前に家族と別れを告げました。

「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最期を遂げて下さい」

母親から渡された短刀を持って、寛郎はフィリピンはルバング島に着任。米軍の来襲に備えて持久戦体制の構築に努めます。

抗戦する寛郎たち(イメージ)

が、明けて昭和20年(1945年)2月28日、米軍がルバング島に上陸すると奮闘虚しく戦線は崩壊。寛郎たちは散り散りになって山間部へ逃げ込み、身を潜めたのでした。

「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」

第14方面軍隷下第8師団長の横山静雄(よこやま しずお)陸軍中将の言葉を信じて、寛郎たちは数十年にわたるゲリラ戦を続けます。

戦友たちとの日々

果たして昭和20年(1945年)8月15日にポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦が決定しましたが、情報の途絶したジャングルに潜んでいる寛郎たちはそれを知らずにいました。

この時、寛郎と行動を共にしていた部下たちは次の以下の3名です(階級順、カッコ内は昭和20年時点の年齢)。

小塚金七。Wikipediaより

島田庄一(しまだ しょういち。32歳、伍長)

小塚金七(こづか きんしち。24歳、上等兵)

赤津勇一(あかつ ゆういち。年齢不詳、一等兵)

ちなみに寛郎は23歳で少尉。知らない方向けに紹介すると、旧陸軍の階級は概ねこの通りになっています。

二等兵⇒一等兵(赤津)⇒上等兵(小塚)⇒兵長【ここまでが兵士】⇒伍長(島田)⇒軍曹⇒曹長【ここまでが下士官】⇒准尉⇒少尉(寛郎)……(後略)

将校1名、下士官1名、兵士2名、この4名でルバング島のジャングルをサバイバルしながら、隙を狙って島を占領した米軍に対してヒット&アウェイのゲリラ戦を展開しました。

いつか日本から、形勢を巻き返した友軍がやって来るまで、どんなことがあっても生き抜いて、少しでも敵に損害を与えようと奮闘した寛郎たちでしたが、ゲリラ襲撃の被害について米軍の記録もあいまいなため、実際に殺したのは現地住民だけだったと言われるなど、戦果については諸説あるようです。

そんな中、孤立無援のゲリラ生活に嫌気が差したか、赤津一等兵が昭和24年(1949年)9月に脱走。翌25年(1950年)6月に米軍へ投降したことによって寛郎たちがまだ生きていることを知った者たちは大騒ぎとなりました。

靖国神社に祀られていたことも(イメージ)

日本ではすでに戦死したものとして戦死公報まで出されていた者たちが、実は生きていたとなれば、家族たちは俄然元気づきます。

何度か捜索隊が結成され、現地へ赴いたものの寛郎たちはこれを敵の謀略として信じず、捜索はいずれも空振りに終わりました。

なおも戦闘を継続していた昭和29年(1954年)5月7日、フィリピンの警察隊と銃撃戦を展開していた最中に島田伍長が戦死。享年41、眉間を撃ち抜かれたと言います。

それでも任務を放棄することなくゲリラ戦を続けた寛郎たちでしたが、敗戦から27年が経った昭和47年(1972年)10月19日、フィリピン警察隊との銃撃戦によって小塚上等兵が戦死

享年51、青春どころか人生の半分以上を戦場で過ごした男の死によって、寛郎はついにたった独りとなったのでした。

【後編へ続く】

※参考文献:

  • 小野田寛郎『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』朝日新聞社、1988年8月
  • 小野田寛郎『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い』明成社、2007年6月
  • 戸井十月『小野田寛郎の終わらない戦い』新潮社、2005年7月

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