藤原隆家「あっ、西洞院。前太政大臣、三の君だ」
※NHK大河ドラマ「光る君へ」第17回放送「うつろい」より
藤原伊周(無言でうなづく)
隆家「光子様。ハッ……それはまた……」
前太政大臣(さきのだいじょうだいじん)と言えば、藤原為光(ためみつ)。劇中時点では故人となっています。
その為光の娘は三の君(さんのきみ)と呼ばれ、また寝殿の上(しんでんのうえ)とも呼ばれました。
ちなみに光子(みつこ)とは、本作における創作名。為光の子だから光子としたのでしょう。
※藤原光子(こうし/みつこ)という女性は実在しますが、藤原伊周の妾であった「光子」とは別人物です。
今回はこの三の君・寝殿の上がどんな生涯をたどったのか、調べてみましょう。
※以下本稿に限り、彼女を三の君光子と呼称します。
三の君光子プロフィール
三の君光子は生年不詳、藤原為光と藤原伊尹女(これただのむすめ)の間に生まれました。
兄弟姉妹に藤原斉信(ただのぶ)や藤原忯子(しし/よしこ。花山天皇中宮)らがいます。
はじめは左大臣・源雅信(まさのぶ)の妻でしたが、後に藤原伊周(これちか)の妾となりました。
恐らく雅信の死後、経済支援を確保するために再婚したのでしょう。
同じ屋敷に妹の藤原儼子(げんし/たけこ/いつこ。四の君)が住んでおり、これが大騒動の原因となるのでした。
勘違いから流血沙汰に
四の君(しのきみ)こと藤原儼子は花山法皇の愛人であり、しばしば花山法皇を招き入れていました。
長徳2年(996年)ごろ、花山法皇がお忍びで儼子を訪ねると、これを伊周の従者が見咎めます。
「あの坊主め、出家の身でありながら女遊びとはけしからん。まして主の想い人である三の君に手を出すとは……」
通報を受けた伊周は、隆家にどうしたものか相談しました。
「よし分かった。兄上の無念は私が晴らしましょう」
「おい。あまり手荒なことをするでないぞ?」
「分かってるって。ちょっと生臭坊主を脅かしてやるだけさ……」
かくして長徳2年(996年)1月16日、隆家は武士団を率いて花山法皇の一行を襲撃する暴挙に出ます。
「野郎ども、兄上の女を寝とった不届き坊主にあいさつしてやれ!」
「無礼者、朕を誰と心得るか……!」
隆家はよもや生臭坊主が花山法皇とも知らず、矢を射かけてしまいました。
花山法皇に怪我はなかったものの、法衣の袖を射抜いたというから冷や汗が止まりません。
さらに隆家らは花山法皇の従童2名を殺害。一行を大いに震え上がらせたのでした。
伊周と隆家は実質流罪に
「この呆気者が!なんということをしてくれたんだ!」
意気揚々と凱旋した隆家を、伊周が叱りつけます。
「畏れ多くも法皇猊下(げいか)を射奉るとは……ただではすまされぬぞ!」
「まぁ大丈夫なんじゃないですかね。考えてみてくれ。今回の件をおおごとにしたら、恥をかくのは法皇猊下の方でしょうよ」
なんて楽観していたかどうか、じっさい花山法皇もそう思って泣き寝入りしようとしていたとか。
しかしこんな好機を見逃さないのが藤原道長という男です。
「何?畏れ多くも法皇猊下の袖を射抜き奉ったとな?断じて許せん!」
という訳で長徳2年(996年)4月に隆家は出雲権守に左遷されました。次いで伊周も呪詛の容疑で大宰権帥に左遷されます。
どちらも実質的には流罪と言えるでしょう。
この際だからと伊周・隆家兄弟に近しい貴族たちも相次いで連帯処罰され、力を失った中宮・藤原定子(ていし/さだこ)は出家することになります。
かくして道長は亡き長兄・道隆一族を政権争いの舞台から一掃したのでした。
これが後世に伝わる「長徳の変」の顛末です。
終わりに
途中から長徳の変に話がシフトしてしまったものの、伊周と別れたであろう後、三の君光子がどうなったかは分かりません。
(四の君儼子は妹の藤原穠子と共に道長の妾となりましたが、出産時に生命を落としてしまいます)
果たして彼女は大河ドラマに登場するのか、登場するなら誰がキャスティングされるのか、今から楽しみですね!
追記(R6.5.12)
長徳の変を描く上で欠かせない存在であった三の君は、竹内夢が演じていました。
姉妹の藤原儼子も登場するか、楽しみですね!
※参考文献:
- 朧谷寿ら編『平安京の邸第』望稜舎 、1987年3月
- 藤本一恵『平安中期文学の研究』桜楓社、1986年1月
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