New! 刀伊の入寇で活躍した武者たち

約束は約束だから…織田信長に仕えた戦国武将・千秋季忠の海賊退治エピソード

戦国時代
スポンサーリンク

約束を守るのはとても大事。子供のころからそう教わってきたものの、大人になると状況によって「これは白紙だろうな」と立ち消えになることも少なくありません。

互いに空気を読み、フェイドアウトする態度を柔軟さと大人は言うのでしょう。しかし中には、あくまでも約束は約束として守り抜く堅物もいます。

今回はそんな戦国武将・千秋季忠(せんしゅう すえただ)のエピソードを紹介。その律儀ぶりに、共感を覚える方もいるかも知れません。

スポンサーリンク

千秋季忠のプロフィール

千秋季忠は天文3年(1534年)に熱田神宮の大宮司で幡豆崎城(はずざきじょう。愛知県南知多町)を治める千秋季光(すえみつ)の子として生まれました。

【千秋氏略系図】

藤原真嗣-高仁-保護-道明-尹文-永頼-能通-實範-季兼―季範―範忠―忠朝―朝季―朝氏―清氏―家季
―女(千秋■■■五郎範世妻)―千秋高範―千秋満範―千秋持季―千秋季國―千秋季通―千秋季平―千秋季光―千秋季忠―千秋季信-千秋季盛-千秋武季-千秋季明―千秋季寿-千秋正季-千秋季豊-千秋季龍……
※■は判読不能文字。

※『系図纂要 十三 藤氏 七』より

織田家に仕えていた父は天文13年(1544年)に討死、跡を継いだ兄の千秋季直(すえなお)も間もなく夭折したため、わずか10代で大宮司職と家督を継ぎます。

通称は四郎(しろう)、祖父・季平と同じ加賀守の官途(私称官職)を許されており、若いころから奉公に励んだことでしょう。

※『系図纂要』によれば、千秋家は高祖父・千秋季國(すえくに)の代から加賀守と紀伊守を交代で襲名しているようです。

佐々政次と共に抜け駆けを図る季忠(イメージ)

しかし永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で佐々政次(さっさ まさつぐ)と共に抜け駆けを図り、あえなく討死してしまいました。享年27歳。

※一説には主君・織田信長(おだ のぶなが)の奇襲を成功させるための陽動作戦とも言われます。

この時、妻の浅井備中女(あざい びっちゅうのむすめ)は男児を身ごもっており、当年出産。成長して千秋季信(すえのぶ。喜七郎、紀伊守)と改名、15歳となった天正2年(1574年)信長に拝謁しました。

大叔父(季光の弟)である千秋季重(すえしげ。『系図纂要』では千秋季直)が中継ぎをしていた大宮司職を受け継いだということです。

【千秋季忠 略伝】

千秋四郎 加賀守 大宮司
尾張列知多郡羽豆ヶ崎
永禄三年五ノ十八今川義元率四万五
千全時来侵知多郡与信長之時陣
季忠進先鋒■戦竟討死 廿七
法名善雄

【意訳】通称は四郎。加賀守の官途(私称)を許され、熱田神宮の大宮司を務めていた。尾張国羽豆ヶ崎城主。
永禄3年(1560年)5月18日、今川義元が45,000の大軍を率いて襲来した際、先鋒としてこれに立ち向かい討死。享年27歳。戒名は善雄(ぜんゆう)。

※『系図纂要 十三 藤氏 七』より

スポンサーリンク

報酬は十万貫、海賊たちに持ちかけた条件を……

さて、そんな千秋季忠の律儀エピソードと言いますと。

今は昔し、羽豆崎の沖合には海賊が横行。当然ながら領民たちは苦しんでおりました。さてどうしたものか……思案をめぐらせた季忠は、海賊の首領と交渉します。

暴れ回る海賊たち(イメージ)

「熱田神宮を修復するので、紀州から伐り出した材木を運んできてもらいたい。報酬は勧進で集まった十万貫を支払うが、どうだろうか」

首領としてみれば、悪くない条件です。

「よかろう」

「支払条件は運搬の完了時とする。納期が迫っているので、急いでくれ」

「相分かった」

さっそく首領は子分たちを総動員して紀州へと出航していきました。当然ながら海賊のアジトはほとんどもぬけの殻。

「者ども、攻めかかれ!」

季忠は家臣にアジトを襲わせ、すっかり焼き払ってしまいました。

「……信義に反するのでは?」

「いや。わしは『材木を運んでくれたら十万貫を支払う』と言ったが『不在のアジトを襲撃しない』とは言うておらぬ。報酬さえきちんと支払えば、お天道様に恥じることはなかろう」

果たして材木を運んできた首領が地団太を踏んでも後の祭り。こういう場合、たいてい十万貫の支払いも反故にするのがお約束ですが、季忠はきちんと十万貫を持参します。

「さぁ、約束通りの報酬じゃ。受け取られよ」

えげつない暴挙に及びながら、変に律儀な態度を気味悪がってか、首領はこれを辞退しました。

「代わりに、住むところを用意してもらいたい」

そこで季忠は遠江国鷲津浜(静岡県湖西市)に住居を与え、以来羽豆崎には海賊が出なくなったということです。

終わりに

以上、『武将感状記』より海賊を追い払った(更生させた?)千秋季忠のエピソードを紹介しました。
不在のアジトを焼き討ちするえげつない行為と、それでも約束通りの報酬は支払おうとする律儀さのギャップが面白いですね。

信長の元にはこうしたユニークな家臣がたくさんいるので、他の者たちも紹介していきたいと思います。

※参考文献:

  • 飯田忠彦『系図纂要 十三 藤氏 七』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』中央公論新社、1998年12月
  • 藤本正行『信長の戦国軍事学』洋泉社、1997年12月

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました