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謀叛人の妾と侮辱され…心無いナンパを拒絶した源義経の愛妾・静御前【鎌倉殿の13人】

平安時代
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平氏討伐における最大の功労者でありながら、その功に驕って周囲と対立。ついには謀叛人として追われてしまった源義経(みなもとの よしつね)。

その愛妾としてどこまでもついていくつもりでいたのに、心ならずも捕らわれて鎌倉へ護送された静御前(しずかごぜん)

静御前。上村松園筆

腹には義経の子を宿しており、出産まで鎌倉に留め置かれることとなった彼女。女児ならば助けるが、男児ならば将来の禍根とならぬよう即座に殺すためです。

どうか女の子でありますように……必死に祈る静御前の思いを踏みにじるような出来事が起こったのでした。

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静御前に梶原景茂が言い寄り……

時は文治2年(1186年)5月14日。静御前の滞在先である安達新三郎清経(あだち しんざぶろうきよつね。清常)の邸宅へ、御家人たちが押しかけます。

そのメンバーは工藤左衛門尉祐経(くどうの さゑもんのじょうすけつね)と梶原三郎景茂(かじわらの さぶろうかげもち)、千葉平次常秀(ちばの へいじつねひで)、八田太郎朝重(はったの たろうともしげ)、藤原判官代邦通(ふじわらの ほうがんだいくにみち)。

「おぅ、お前が静御前か!」

「都で評判の美女と聞いたが、やっぱり垢抜けてンな!」

「先日みたく舞ってくれよ。さぁさぁ!」

静御前。葛飾北斎筆

去る4月8日、源頼朝(よりとも)公の命令により鶴岡八幡宮で舞を奉納。「謀叛人の妾」として晒し者にされた屈辱(トラウマ)がよみがえります。

ただでさえ身重なのに、つまらぬ座興で舞わせるなど論外……ですが、ただ拒絶したところで引き下がりはしないでしょう。

逆上した彼らに暴行を受けたところで誰も助けてはくれません。そこで仕方なく、母の磯御前(いそごぜん)が芸技を披露しました。

「何だ、年増かよ……でもまぁ『亀の甲より年の功』、なかなか上手いモンじゃないか」

「おい静、舞わないなら打座(ぶっつゎ)ってないでお酌くらいしろよ……ホラ!」

「……はい」

傍若無人な御家人たちは、呑めや歌えやどんちゃん騒ぎ……そんな中、すっかり酔っ払った梶原景茂が静御前に言い寄ります。

梶原三郎景茂。歌川貞秀『英雄百首』より

「九郎のヤツぁ、今ごろ奥州で新しい女とよろしくやってる事だろう……どうだい、俺の女にならないか?」

これを聞いて静御前は激怒。泣きながら梶原景茂に猛抗議しました。

「予州(伊予守=義経)様は鎌倉殿のご兄弟で、私はその伴侶です。お前は鎌倉殿の家人でありながら、私をその辺の女と同じく見なして言い寄るなど不敬千万。予州様が謀叛人として追われる身でなければ、お前など私に言い寄るどころか、近づくことすら出来なかったでしょうに!」

静御前の剣幕に一同は白けてしまい、誰が言い出すともなく宴会はお開きに。

「……三郎(景茂)、お前やり過ぎだよ」

「帰ろうぜ」「あぁ……」

とまぁ、そんな事があったのでした。

本件について景茂が処罰された記録は残されていないものの、不幸な境遇の女性に対してこの仕打ち、さぞや白い目で見られたことでしょう。

生まれた男児を奪われて……

文治二年五月小十四日辛卯。左衛門尉祐経。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向静旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。々頗落涙云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不窂籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。」……(後略)

※『吾妻鏡』文治2年(1186年)5月14日条

さて、それからしばらく経った閏7月29日。果たして静御前が義経の子を出産したところ、無情にも男の子でした。

「約束だ!その子を引き渡せ!」

「嫌です。嫌ぁ……っ!」

安達新三郎清経は静御前の産んだ赤子を奪い、これを由比ガ浜に沈め殺します。

イメージ

静御前に同情していた北条政子(ほうじょう まさこ)は男児を出家させる=命だけは助けるよう頼朝公に嘆願しましたが、聞き入れられませんでした。

政子「あなただって、かつて平相国(へいしょうこく。平清盛)に命を助けられたでしょうに、人の心はないのですか!」

頼朝公「ふん……そうやって助けられた我が何をしたか、知らぬそなたでもなかろうに」

9月16日、静御前と磯御前はようやく解放。憐れんだ政子と大姫(おおひめ。頼朝の長女)に見送られて京都へ帰って行ったのでした。

かくして歴史の表舞台より姿を消した静御前。義経が謀叛人とされたことから、哀しい末路をたどることになりました。

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