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【歴史旅】源頼朝の再起を加護した?洲崎大神(神奈川県横浜市)の歴史を紹介【鎌倉殿の13人 外伝】

伝承民俗
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所用で横浜までやって来た時、ふと白い鳥居を見つけました。

車の激しく行き交う幹線道路を見守るような佇まいが背後の森に浮かび上がり、えも言われぬ美しさです。

少し時間があったので、さっそく参拝させて頂きました。

境内を進んだ奥で、荘厳な佇まいを見せる洲崎大神の社殿。筆者撮影

こちらの洲崎大神(すさきおおかみ)、いったいどんな由緒があるのでしょうか。

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安房国からやって来た神様たち

社伝によると洲崎大神の創建は平安末期の建久2年(1191年)6月26日。

かの源頼朝(みなもとの よりとも)公が征夷大将軍として鎌倉幕府を開かれる前年ですね。

安房国(千葉県南部)一宮である安房神社(洲崎神社)から御祭神を分霊、当地に勧請したことに始まります。

天太玉命(画像:Wikipedia)

御祭神は天太玉命(アメノフトタマノミコト)と、その妃神である天比理刀売命(アメノヒリトメノミコト)。

この二柱は高天原(たかまがはら。神々のおわす天上世界)で祭祀を司りました。

相殿には素戔嗚尊(スサノオノミコト)と大山咋命(オオヤマクイノミコト)が祀られ、境内にはお稲荷様(井戸守元町稲荷社)も鎮座しています。

社殿の屋根について、豆知識。他の神社でも確かめてみよう!

素戔嗚尊は天照大御神(アマテラスオオミカミ。神々の頂点に立つ皇祖神)の弟で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治などで有名人です。

大山咋命は文字通り山の神様で、大年神(オオトシノカミ。歳神)と天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)の子と伝わります。

お稲荷様は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と呼ばれ、食べ物を司る神様として広く信仰されてきました。

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頼朝公の再起を加護する

なぜ頼朝公が千葉県南部の神様を当地にお迎えしたのかと言いますと、それにはこんな由緒(いわれ)があったのです。

身をひそめる頼朝公ら(イメージ)

時は治承4年(1180年)8月、平家を討つため挙兵した頼朝公は、相模国石橋山の戦いで惨敗を喫してしまいます。

敵に追われて山中を逃げ惑い、生死の境をさまよった頼朝公は、何とか生き延びて窮地を脱しました。

海を渡って房総半島へたどり着いた頼朝公は洲崎神社へ参籠(祈願のためお篭もり)して、再起が叶った暁には必ず篤く御礼することを誓います。

果たして再起を遂げて鎌倉に武家政権を打ち立てた頼朝公は、現在地に洲崎大神を創建したのでした。

800年以上の歴史をたどる

『江戸名所図会』より、洲崎明神(洲崎大神)

頼朝公の天下草創を加護された、霊験あらたかな神様として人々に崇敬された洲崎大神。その賑わいが『江戸名所図会(えど めいしょずえ)』にも描かれています。

鳥居のすぐ先には海があり、毎年6月6日の例祭では海を隔てた洲崎神社と洋上で対面する「御浜下り」の神事が行われてきました。

やがて明治元年(1868年)10月に明治天皇が東幸(東国へお出かけになること)された際には、当社を内侍所(ないしどころ)として神鏡が奉安されます。

洲崎大神の境内に建立された石碑(明治遷都内侍所奉安之跡)。筆者撮影

明治10年(1877年)8月に郷社の指定を受け、明治40年(1907年)4月には神饌幣帛料供進社となりました。

神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうくしんさゃ)とは、勅令に基づいて県知事から例祭のお供え物が進上される神社のこと。

いかに洲崎大神が大切にされて来たかが解りますね。

しかしよいことばかりではなく、関東大震災(大正12・1923年9月1日)や横浜大空襲(昭和20・1945年5月29日。大東亜戦争)によってしばしば灰燼に帰してしまいました。

それでも生き残った氏子や崇敬者の手で再建され、現存する社殿は昭和31年(1956年)に再建されたものです。

また、昭和5年(1930年)に造られた大神輿も現存。戦火をくぐり抜けた風格を今に伝えます。

また昭和15年(1940年)には鎮座750年祭、平成2年(1990年)には鎮座800年祭が斎行されました。

次の鎮座850年祭が行われるなら西暦で2040年、その日が楽しみですね!

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洲崎大神ギャラリー

広々とした洲崎大神の境内。筆者撮影
地元企業の名が刻まれた玉垣は、人々に愛され続けた証。筆者撮影
洲崎大神の境内に鎮座する井戸守元町稲荷社。筆者撮影
洲崎大神境内の定(注意書き)。最後の「一、純粋な信仰を何人も妨げられない」という文言に強い意志を感じられて好き。しかし何かあったのだろうか?筆者撮影

終わりに

【洲崎大神・略年表】

建久2年(1191年)安房洲崎神社から勧請・創建
明治元年(1868年)明治天皇の東幸内侍所に
明治10年(1877年)郷社に指定
明治40年(1907年)神饌幣帛料供進社に指定
大正12年(1923年)関東大震災で消失
昭和5年(1930年)現存する大神輿が竣工
昭和15年(1940年)鎮座750年祭を斎行
昭和20年(1945年)横浜大空襲(米軍の爆撃)で消失
昭和31年(1956年)社殿を再建、現存
平成2年(1990年)鎮座800年祭を斎行
洲崎大神の境内にたたずむ歌碑。水戸の歌人・眞■(しめすへん+口+耳)の作品とのこと。筆者撮影

以上、横浜市神奈川区に鎮座する洲崎大神の歴史を紹介してきました。

皆さんもお近くを訪ねることがありましたら、ご参拝いただけたらと思います。

洲崎大神・基本データ

住 所:〒221-0057 神奈川県横浜市神奈川区青木町5−29

交 通:横浜駅(JR線、京急線など)きた東口Aから徒歩7分程度

御朱印:なし

頒布品:令和5年7月(参拝時)現在

  • 御神札…………1,000円
  • 御神矢…………2,000円
  • 絵馬……………1,000円
  • 御守……………600円
  • 交通安全………600円
  • 御神札一組……4,000円
  • 神宮大麻………1,500円

※参考文献:

  • 神奈川県神社庁 編『神奈川県神社誌』桜楓社、1981年6月

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