頼通の妻 隆姫女王(たかひめじょおう)
田中 日奈子(たなか・ひなこ)藤原頼通の妻。62代・村上天皇の第七皇子である具平親王(ともひらしんのう)の長女。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
藤原道長の嫡男・藤原頼通。物語が進むにつれて彼も大きく成長し、気づけば成人していました。
そんな頼通の妻として登場する隆姫女王。果たして彼女はどのような生涯を送るのでしょうか。
今回は藤原頼通の妻・隆姫女王を紹介。その生涯をたどってみたいとおもいます。
夫婦仲は円満だったが……。
隆姫女王は長徳元年(995年)、具平親王(ともひら)と為平親王女(ためひら娘)の間に誕生しました。
※史料によって隆子女王、隆姫子女王などと表記ゆれがあります。
具平親王は村上天皇の皇子であり、為平親王も村上天皇の皇子なので、おじと姪の夫婦ですね。
同母妹弟に祇子女王(ぎし/のりこ)・嫥子女王(せんし/あつこ)・資定王(すけさだ。のち源師房)がいます。
成長すると藤原頼通(よりみち。道長嫡男)と結婚(降嫁)しました。
両親ともに皇族というやんごとなき血筋の隆姫女王に対して、道長は大歓迎。
頼通に「男は妻がらなり(男の価値は妻で決まる)」と言い聞かせたとか。
かくして隆姫女王は高倉北政所(たかくらのきたのまんどころ)と呼ばれ、頼通との夫婦関係は円満。
しかし隆姫女王には子供ができず、頼通を悩ませてしまいました。
禔子内親王との縁談は?
そんな中、三条天皇が皇女の禔子内親王(ていし/ただこ)との縁談を持ちかけます。
当時とすれば側室を持つのは当たり前、むしろ子供ができなければ何人でも迎えるべきという価値観でした。
しかし頼通は隆姫女王を傷つけたくないため、この縁談を躊躇してしまいます。
これを見た道長は頼通を叱りつけました。
「男は妻は一人のみやは持たる。痴(しれ)のさまや(男たるもの、妻を一人しか持たないなんて、お前はバカじゃないのか!)」
※『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」
……そういう時代だったのです。
結局この縁談は怨霊騒ぎによって有耶無耶となり、禔子内親王は藤原教通(のりみち。頼通の同母弟)に降嫁したのでした。
この怨霊とは具平親王(※『栄花物語』)であるとも、藤原伊周(※『小右記』)であるとも言われています。
エピローグ
その後も隆姫女王と頼通の間に子供は生まれず、妹の祇子女王(夫は敦康親王)が産んだ娘・嫄子女王(げんし/もとこ)を養女に迎えました。
藤原嫄子となった彼女を後朱雀天皇(一条天皇と藤原彰子の次男)に入内させ、辛うじて皇室の外戚たる体裁を保ったそうです。
ちなみに頼通はやがて側室を迎え、子供が生まれていますが、今回は割愛しましょう。
長暦3年(1039年)8月28日には養女の藤原嫄子に先立たれ、康平7年(1064年)11月に出家。延久6年(1074年)2月2日には夫の頼通にも先立たれてしまいます。
そして寛治元年(1087年)11月22日に93歳で薨去したのでした。
終わりに
今回は藤原頼通の正室・隆姫女王を紹介。その生涯をたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」では、どのような女性に描かれるのでしょうか。
田中日奈子の好演に注目しましょう!
※参考文献:
- 坂本賞三『藤原頼通の時代 摂関政治から院政へ』平凡社選書、1991年5月
- 『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年6月
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