美貌と怪力を兼ね備え、戦場に武勇を奮った巴御前(演:秋元才加)。
木曽義仲(演:青木崇高)の滅亡後に和田義盛(演:横田栄司)の愛妾となった彼女ですが、二人の馴れ初めはどのようなものだったのでしょうか。
今回は軍記物語『源平盛衰記』より、巴御前が鎌倉へ連行された場面から見ていきましょう。
怪力を恐れられ、あわや島流しに
「……そなたが巴か」
源頼朝(演:大泉洋)の前に引き出された巴御前。このとき31歳(寿永3・1184年時点=仁平4・1154年生まれ)ということですが、その容貌は16歳(二八)の少女みたいであったと言われます。
色白で眉も美しく、とても怪力の持ち主とは思えません。周りで見ている女性たちも黄色い声を上げています。
「大層な膂力と聞くが、一つ見せてはくれまいか」
女武者の力自慢がどれほどのものか……どうせ「おなごにしては」であろうと内心侮っているのを覚った巴御前は呵々大笑。
「敗軍の身で力自慢など恥ずかしい限り。しかしながら、ご所望とあらばご覧に入れましょう」
そう言って立ち上がった巴御前。建物の隅まで歩くと柱を両手に抱え、少しずつ揺らし始めました。
「「「あなやっ!」」」
たちまち建物が揺らぎだし、今にも崩れ落ちそうな勢いに頼朝はたいそう感心。その晩は大いにもてなしたということです。
しかし巴御前の怪力で謀叛など起こされては敵わない……そう恐れた頼朝は、巴御前を伊豆大島か八丈島へ流罪にしようと考えました。
「暫く!どうかお待ち下され!」
巴御前の流罪に待ったをかけたのが和田義盛。
「巴殿の武勇は恐ろしいものですが、女性(にょしょう)なれば謀叛の心など起こしますまい。どうか我が日ごろの軍功に免じて、彼女をそれがしの妻に下され。強い男児を生ませてご奉公させ、我が家名を顕したく存じまする。この願いが叶いましたら、決して渠(かれ。彼)に謀叛など起こさせませぬ」
ここで言う「渠」とは、鎌倉で人質にとっている義仲の遺児・源義高(演:市川染五郎)。『源平盛衰記』においては巴御前が産んだ子供となっています(諸説あり)。
「うーん。そなたがたっての願いとあらば……」
こうして義盛は巴御前を後妻に迎えました。巴御前にとっては不本意だったかも知れません。しかし島流しに比べれば、まだよかったのではないでしょうか。
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生んだ息子(朝比奈義秀)の怪力ぶり・和田合戦その後
その後、巴御前は文治元年(1185年)に男児を出産。これが後の朝比奈義秀(演:栄信)、大層のっぽに成長し、身の丈は6尺8寸(約206センチ)に余ったと言います。
両親譲りの力自慢で、29歳となった建保元年(1213年。建暦3年)の和田合戦では三昼夜ぶっ通しで大暴れ。
あまりの激しさに六頭の駿馬を乗り潰し、刃向かった者は誰一人生き残れなかったと言います(『吾妻鏡』では例外あり)。
【朝比奈義秀と戦った者たち】
五十嵐小豊次(いがらし ことよじ)……討死
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2~3日条より
葛貫盛重(くずぬき もりしげ。三郎)……討死
新野景直(にいの かげなお。左近将監)……討死
礼羽蓮乗(れいは れんじょう)……討死
高井重茂(たかい しげもち。三郎兵衛尉)……討死
北条朝時(ほうじょう ともとき。相模次郎)……負傷、逃走
足利義氏(あしかが よしうじ。三郎)……逃走
鷹司冠者(たかつかさのかじゃ)……討死
武田信光(たけだ のぶみつ。五郎)……見逃される
武田信忠(のぶただ。悪三郎)……見逃される
小物資政(こもの すけまさ。又太郎)……討死
※この他、敵兵無数
ほか『吾妻鏡』では御所の惣門を素手で破壊したり、逃げる足利義氏の鎧袖を引きちぎったりなど、まさに鬼神のごとき大活躍でした。
しかし武運拙く和田勢は敗北。義盛は討たれ、義秀は逃亡先で討たれた(『吾妻鏡』など)とも高麗まで逃れた(『和田系図』など)とも言われます。
この時、巴御前は60歳。上総国伊北の荘園(現:千葉県いすみ市)で暮らしていた彼女は出家して越後国の友松(現:新潟県長岡市)で隠棲。義仲や義盛らの菩提を弔う日々を送りました。
やがて建保7年(1219年)に鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)が暗殺されると上洛し、嵯峨往生院の境内に草庵(紫雪庵)を結びます。
そして第3代執権・北条泰時(演:坂口健太郎)の時代に80歳余りで世を去ったということです。
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終わりに
……頼朝直に営中へ召れけるに巴當年三十一歳なりと雖も容顔ハ宛然二八の少女の如く色飽まても白くして眉黛春月を拂ひ勿々大力の女とハ見えざるに因て垣間見たる女人達ハ是なん巴なるやと或ハ疑ひ或ハ其美に恍惚て居たりけり此時頼朝巴が力量の程を試みられんとて云々申聞られしに巴聞て打笑ひ今更の身と相成り入ざる力業を為んこと恥しけれとも御所望に付御覧に入申さんとて直と立て隅の大柱を両手に抱へ徐々揺り出すに御殿家鳴して今にも崩れ出さん気色なりけれバ人々驚き立騒ぐ因て巴早速本座に立戻りしに頼朝も此有様に其力量を殊の外感し給ひ頓て種々御饗應ありて過し軍の事共尋ねられけれバ巴も概略の物語して其日ハ退参し夫より義高に逢て互に手と手を取合つヽ且泣且哀みて暫時ハ言葉も無りけり斯て頼朝ハ巴が怪力を見て聞しに増る恐ろしき女性なり大島か八丈島へ流罪に申付んと有けれバ諸人顔見合せて未だ何とも返答せさる所に和田右衛門尉義盛進み出巴女の剛勇何様恐ろしく候へ共女性の事なれバ害心も候ましあハれ義盛が日頃の軍功に因て此女を義盛に賜らバ誠に莫大なる君恩と存じ奉るなり心剛に力強き女なれバ義盛後妻となし力強き男子を設けて他日君が御用に相立家名をも顕ハし度存じ候此願相叶ひ候上ハ決して渠に曲事致させ申間しと頻に願ひけれバ頼朝聞給ひ汝が願望至極せり然らバ汝に遣ハす間必らず共に鹿忽有へからすとて遂に義盛が後妻と為し給ひけるにそ義盛悦ひ此時よりして巴を妻とし其後文治元年九月巴が腹に男子出産す是乃ち朝比奈三郎義秀なり此児生長に随ひ諸人に勝れて身の丈高く成人の後ハ六尺八寸に余り而も母か力を請継て前代未聞の大力量なる人と成たりけり然バこそ建保元年五月和田合戦の時廿九歳にして三晝夜戦ひ馬を乗り殺す事六疋義秀に刃向ふ者一人として生たる者なしと委しくハ和田合戦の記にあり此時巴女ハ年老いて六十歳と成り上総国伊北の庄に居たりしが義盛始め一門滅亡の由を聞て伊北を退去し北国へ赴き縁ある越中国石原林水巻の許に至りて剃髪し夫より越後の友松といふ所に引籠り義仲并に父兄和田一門の冥福を祈り居たりしが其後年経て鎌倉三代将軍実朝公薨去の後京に上り嵯峨の往生院境内に庵を結びて此所に住し北条泰時の時世に至り八十有余にて卒すとかや其庵乃ハち紫雪庵と號して舊跡今猶彼處に残れりとなん
※『参考 源平盛衰記』「義仲巴女に分れを諭す事」より
以上『源平盛衰記』より和田義盛との馴れ初めと晩年を紹介してきました。巴御前は『吾妻鏡』に登場しないため架空の人物説もあるものの、それにしては随分と情感たっぷりに描かれています。
少なくとも、彼女のモデルとなった女武者がいたのでしょう(『吾妻鏡』にも坂額御前をはじめ女武者の存在を確認)。
義仲と別れ、また義盛たちと別れた悲しみを背負いながら長寿をまっとうした巴御前。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのような退場を飾るのか楽しみです。
※参考文献:
- 『参考 源平盛衰記』「義仲巴女に分れを諭す事」国立国会図書館デジタルコレクション
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
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