戦国時代、天下布武を唱えて覇道に邁進した乱世の風雲児・織田信長。
若い頃から傾奇者として知られ、新しいものや珍しいものには目がありませんでした。
そんな信長は史上初めて黒人を召し抱えた戦国大名としても知られ、その黒人には弥助(やすけ)の名が与えられています。
今回はこの弥助の生涯をひもとくと共に、弥助が武士だったのか?それとも召使いだったのか?について考察。
皆さんは、弥助が武士だったと思いますか?それとも、召使いだったと思いますか?
弥助の生年と出身、本名について
弥助の生まれた年についてはよく分かっていませんが、『信長公記』によれば信長に謁見した天正9年(1581年)時点で26~27歳ぐらいと見られています。
そのため弥助の生年は、天文24年(1555年。弘治元年)から弘治2年(1556年)ごろと考えられるでしょう。
また出身地はアフリカ東部のモザンビークと言われています。16世紀の当時はポルトガル領東アフリカと呼ばれていました。
弥助の本名については不明で、弥助という名前は信長に命名されたものです。ただし今回は便宜上、弥助で統一しましょう。
ちなみに今日のモザンビークには「ヤスフェ」という名前の方が多いそうです。
弥助も元々はヤスフェと言う名前で、自己紹介を聞いた信長が日本風に弥助とアレンジしたのでしょうか。
あるいは可能性こそ低そうですが、逆に現在モザンビークにいるヤスフェさんは、弥助の子孫なのかも知れません。
ヤスフェが先か?弥助が先か?ヤスフェという名前についても、その由来を調べてみたいですね。
信長に仕えた「黒坊主」
弥助が来日したのは、イエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノがインドから連れてきたのがキッカケと言います。
奴隷であった弥助が東アフリカから誰かに買われ、インドに滞在いたところを連れて来られたのか、あるいは東アフリカから直接連れて来られたのかは定かではありません。
ともあれ弥助は日本にやって来たのでした。
「……切支丹国より黒坊主参り候……」
【意訳】キリシタンの国(南蛮)から、黒坊主がやってきた。
【補足】弥助が洗礼を受けていたかはともかく、宣教師に従っていたので信徒(坊主)と見られたのでしょう。※太田牛一『信長公記』より
弥助が信長に謁見したのは天正9年(1581年)2月23日。『信長公記』によると牛のように黒々とした体躯をしており、十人力の剛力を誇ったそうです。
また『家忠日記』の記録では身長6尺2分。1尺≒30.3センチ、1分≒0.303センチとすると、30.3×6.02≒182.4センチになります。
※ちなみに尺(しゃく)と分(ぶ)の間に寸(すん。約3.03センチ)という単位もありました。
信長ははじめ身体に墨を塗っているのだと思い込み、身体を洗わせたと言います。
しかし洗っても肌が白くなるどころか、ますます黒光りしたので、本当にこんな肌の黒い人間がいるのかと興味津々。
さっそくヴァリニャーノと交渉して弥助を譲り受けたのでした。
やがては城主に?信長お気に入りの側近
信長から弥助と名づけられた黒坊主は、さっそく人々の評判となります。
世にも珍しい黒坊主を一目見ようと野次馬たちが押しかけ、時には乱闘事件に発展してしまうこともあったそうです。
信長はどこへ行くにも弥助を連れ歩くほど気に入っており、弥助に私宅と鞘巻(さやまき。腰刀の一種)、そして扶持(ふち。所領or俸給)を与えました。
弥助は信長の道具持ちを務めていましたが、人々はそのうち弥助を殿(領主、城主)にするつもりなのだろうと噂したと言います。
弥助は天正10年(1582年)2~3月の甲州征伐(甲斐の武田勝頼攻略)にも従軍しました。
……上様御ふち候、大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云……
【意訳】信長様は先に扶持を与えた≒召し抱えたという、デウス(宣教師)が献上したという、黒男を連れている。身体は墨のように真っ黒で、身長は約182.4センチ、名は弥助というそうだ。
※『家忠日記』天正10年(1582年)4月19日条
信長の凱旋途上、徳川領を通過した際に徳川家康家臣の松平家忠が、その威容に感嘆した様子が描かれています。
本能寺の変で奮戦するも……
ときはいま あめがしたしる さつきかな
【意訳】今、雨露がしたたるサツキの花が、美しく咲いている。
【真意?】時機が到来した。この五月に私が天下を治めるのだ!※織田重臣・明智光秀
天正10年(1582年)6月2日、信長の重臣であった明智光秀が謀叛を起こしました。
無防備な状態で京都・本能寺に宿泊していた信長を襲撃、これがいわゆる本能寺の変です。
この時に弥助は信長の嫡男である織田信忠の宿所である妙覚寺で明智勢と抗戦し、大いに武勇を奮ったと伝わります。
しかし武運つたなく信長・信忠ともに自害して果て、弥助は投降せざるを得ませんでした。
捕縛された弥助が処断を待っていると、光秀から助命する旨を伝えられます。
「黒奴(こくど、くろやっこ)は何も知らぬ獣に等しく、無益に殺すことはない(大意)」
かくして弥助は南蛮寺の宣教師らに引き渡され、生き永らえたのでした。
エピローグ
その後、弥助の消息を伝える記録は残されていません。
ルイス・フロイスの『日本史』において、天正12年(1584年)に肥前国で勃発した沖田畷(おきたなわて)の合戦に大砲を扱う黒人がいたとされ、彼が弥助ではないかとする説もあります。
ただし当時は少数ながら黒人らが日本に入ってきているため、別人の可能性も高いでしょう。
果たして弥助は故郷へ帰ったのか、伴天連たちに随行して別の地へ旅立ったのかも知れません。
弥助ほどの人物がどこかへ仕官したとなれば必ず話題に上ったはずなので、その線は可能性が低そうですが。
もし信長が生き続けていたら、戦国史上初の黒人領主・黒人城主になれたかも知れませんね。
結局、弥助は武士か?召使いか?
ここまで信長に仕えた黒人・弥助の生涯を断片的にたどってきました。
最近ではゲームやメディアの影響か、弥助が武士であるか否かで議論を呼んでいるようですが……果たして弥助は武士だったのか?それとも単なる召使いだったのか?考察していきましょう。
弥助は武士説
- 弥助は信長から扶持を与えられている。封建的な主従関係にある。
- 弥助は信長から刀を与えられている。刀は武士の象徴である。
- 弥助は信長、信忠を護るために戦っている。武をもって仕える者が武士でなくて何であろうか。
弥助は召使い説
- 弥助は信長の道具持ちに過ぎない。
- 仮にも武士が「譲渡」されるなど、そんな扱いは有り得ない。
- 弥助は召使いだから解放された。武士だったら殺されている。
弥助は召使い説への反論
- 従僕から武士に立身した例は、豊臣秀吉はじめ少なくない、
- かつて奴隷であったとしても、そこから武士になれるチャンスは十分あった。
- 弥助が解放されたのは、宣教師たちとの関係悪化を恐れての事である。
弥助は武士説への反論
- 文官や従僕に扶持を与えることは珍しくない。扶持や所領がただちに武士であることの証拠にはならない。
- 当時は農民だって当たり前に護身用の刀くらい差す。刀≒武士という感覚は後世のものだ。
- 武士以外にも、武力や技量をもって仕える者は少なくなかった。農民だって自衛のためなら武器をとるだろう。
……少なくとも、弥助を解放した明智光秀からは「武士ではない」と見なされていたようです。
しかし武士に何の資格が必要なわけでもなく、主君が武士として扱いさえすれば、その者はれっきとした武士と言えるでしょう。
ただし「信長が弥助を武士として扱っていた」という証拠がない限り、現状においては「弥助が武士であったとは言い切れない」というしかありません。今後の究明が俟たれますね。
弥助の基本データ
本 名 | 不詳(ヤスフェ?) |
生 年 | 不詳:天文24年(1555年。弘治元年)~弘治2年(1556年)ごろ生まれ? |
没 年 | 不詳 |
出身地 | ポルトガル領東アフリカ(現:モザンビーク) |
人 種 | 黒人(Negroid) |
身 分 | 奴隷?⇒織田家臣(武士?召使い?) |
身 体 | 墨のように黒い身体、身長は六尺二分(約182.4センチ) |
武 力 | 十人力の剛力、本能寺の変で奮戦 |
戦 歴 | 甲州征伐、本能寺の変など |
主 君 | アレッサンドロ・ヴァリニャーノ⇒織田信長⇒? |
※参考文献:
- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年9月
- 柳谷武夫 編『イエズス会日本年報〈上〉』雄松堂書店 、1969年1月
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