先般、戦国武将の蜂須賀小六正勝が、織田信長より下賜されたとされる銘刀が発見されたそうです。
備前長船祐定(びぜんおさふね すけさだ)の銘が彫られたこちらの刀には、どんないわれがあるのでしょうか。
播磨平定(長水城攻略)の恩賞として与えられる

時は天正8年(1580年)6月、正勝とその嫡男である蜂須賀家政(いえまさ)が播磨国長水城(ちょうずいじょう。兵庫県宍粟市)を攻略しました。
城主の宇野政龍(うの まさたつ。十郎左衛門)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)から百数十年5代にわたって長水城を支配し続けた名族だったと言います。
しかし正勝の猛攻に耐えかね、城を捨てて隣国の美作(岡山県北東部)へ逃れようとしたものの、正勝らの追撃を受けて討ち死にしました。
この時に、正勝は城主一族の宇野重清(しげきよ。民部大輔)を生捕りにしたそうです。由緒書きでは、これらの武功を賞して信長が正勝に名刀を下賜したことが記されています。
また蜂須賀家の歴史をまとめた『蜂須賀家記』においても、正勝が天正8年(1580年)に信長から刀を賜わったことが記録されていました。
八年庚辰(かのえのたつ)六月、従入播磨(したがいてはりまへいり)、攻宇野政龍十郎左衛門於広瀬(ひろせにおいてうのまさたつをせめ)、政龍棄城逃(しろをすててにげ)、公追至宍粟(しそうにおいいたり)擒其族宇野重清、民部大輔(そのともがら うのしげきよをとらう)、太閤賞以鞍馬(あんばをもってしょうし)、右府亦賜名刀(うふもまためいとうをたまう)……
※『蜂須賀家記』より
【意訳】天正8年(1580年)6月に正勝は秀吉に従って播磨国へ進撃し、広瀬の地で長水城に立て籠もる宇野政龍(十郎左衛門)を攻めた。政龍は城を捨てて逃げ、正勝(公)はこれを追撃して宍粟の地で宇野一族の宇野重清(民部大輔)を捕らえた。秀吉(太閤)は鞍付の駿馬を与え、信長(右府)もまた名刀を与えた。
最後まで抵抗していた長水城の攻略をもって、播磨国の平定が成し遂げられました。この銘刀は、その祝いとして贈られたものと考えられるでしょう。
備前国から越前国を経て信長の手に

ちなみにこの銘刀は、もともと越前国(福井県)を統治する朝倉家が所有していたそうです。
天文2年(1533年)8月某日に備前国(岡山県南東部)で作刀されたものが朝倉家にわたり、とある家臣の所有するところとなりました。
その家臣は元亀元年(1570年)6月28日に起こった姉川の戦いで信長に捕らわれ(あるいは降伏し)、この銘刀を召し上げられた(没収された)ということです。
【由緒書きの全文】
正勝様天正八年播磨国(まさかつさま てんしょうはちねん はりまのくに)
長水城攻之戦功ニヨリ信長公(ちょうずいじょうぜめのせんこうによりのぶながこう)
ヨリ御拝領之御短刀(よりごはいりょうのごたんとう)
備前国長船祐定(びぜんのくにおさふねすけさだ)
天文二年八月日(てんぶんにねんはちがつにち)
長九寸七分(ながさきゅうすんしちぶ)
右ノ御短刀姉川合戦勝利(みぎのごたんとう あねがわがっせんしょうり)
之節信長公朝倉家臣(のふし のぶながこう あさくらかしん)
某所持ヲ召シ上ゲル物也(なにがししょじをめしあげるものなり)
信長公御由緒之御品ニテ(のぶながこう ごゆいしょのおしなにて)
永世御秘蔵之宝刀也(えいせいごひぞうのほうとうなり)※改行は原文ママ、()内は筆者による追記
【意訳】これは正勝が天正8年(1580年)に播磨国長水城を攻めた時の恩賞として信長から賜った短刀である。
銘は備前国長船祐定。長さは約29センチ、天文2年(1533年)に作られて朝倉家臣が持っていたところ、姉川の戦いを通じて信長が没収したものである。
信長にゆかりの深い貴重な品であり、末永く大切にすべきである。
蜂須賀家伝来・備前国長船祐定の略年表
- 天文2年(1533年) 祐定によって作刀される
- 時期不詳 朝倉家にわたる
- 元亀元年(1570年) 姉川の戦いで信長が没収する
- 天正8年(1580年) 信長から正勝に下賜される
- 以降、蜂須賀家に伝来
- 時期不詳 民間の手にわたる
- 令和8年(2026年) 徳島城博物館で一般公開される
今回は蜂須賀正勝が織田信長から下賜された銘刀について紹介しました。
こちらの銘刀は徳島城博物館(徳島県徳島市)で令和8年(2026年)11月23日(月祝)まで公開されていますので、見学してみてはいかがでしょうか。
※参考:

