目には神経が集中しているため、刺激や痛みにとても敏感です。ゴミがちょっと入るだけでも痛いのに、矢が当たったとなったらどれほどの激痛なのか、想像するだけで悶絶してしまいそうですね。
しかし戦場で悶絶していたら敵に討たれてしまいます。そこで気力を振り絞って果敢に反撃するなり安全なところまで退避するなりしなければなりません。
今回は承久の乱(承久3・1221年)で右目を射られながら毅然と反撃し、武名を高めた御家人・波多野五郎義重(はたの ごろうよししげ)のエピソードを紹介したいと思います。
矢の雨が降る敵中へ殴り込み
波多野義重は生年不詳、相模国波多野荘(現:神奈川県秦野市)を治める御家人・波多野忠綱(ただつな)の子として生まれました。
元服して最初は波多野宣政(のぶまさ)と改名、北条重時(ほうじょう しげとき。北条義時の三男)の娘を妻に迎えて河尻宣時(かわじり のぶとき)・野尻時光(のじり ときみつ)・波多野義泰(よしやす)など子をもうけています。
後に宣政から義重と再度改名しているのは、もしかしたら政の字を北条時政(ときまさ)からもらっていて、時政の失脚が影響しているのかも知れません。
さて、源氏将軍亡き後の鎌倉幕府と後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)率いる朝廷が武力衝突を起こした承久の乱では、武蔵太郎こと北条時氏(ときうじ。泰時の長男)に従って東海道を進軍します。
さて、筵田(むしろだ。現:岐阜県本巣市)まで進撃した時氏の軍勢は、30名ばかりの官軍と遭遇。敵は劣勢ながら懸命に矢を射かけてきました。
時氏は三善右衛門太郎康知(みよし うゑもんたろうやすとも)・中山次郎重継(なかやま じろうしげつぐ)に命じて応戦させ、その援護射撃を恃みに義重は敵中へ突撃します。
「此度の先登(せんど。先駆け、一番乗り)は波多野五郎がいただきじゃ!」
果敢に殴り込んだはいいものの、敵の放った矢が右目に命中してしまいました。
「なんの!」
にわかに取り乱したものの、ここで怯んでは坂東武者の名折れとばかり弓に矢をつがえて射返します。
「皆ども、五郎を討たせるな!」
時氏が郎党らを義重に加勢させると敵方は一気に崩壊。わずかに残った者たちは這々(ほうほう)の体で逃走し、これで株川・墨俣・市脇などの要害をことごとく攻略したのでした。
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この右目は名誉の証し。三浦盛時の中傷に猛抗議
……武藏太郎到于筵田。官軍卅許輩相搆合戰。負楯。精兵射東士及數返。武藏太郎令善右衛門太郎中山次郎等射返之。波多野五郎義重進先登之處。矢石中右目。心神雖違亂。則射答矢云云。官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢。
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月6日条
かくして右目を失っても怯まず先登の武功を立てた義重。しかし宝治元年(1247年)11月、御家人の三浦五郎左衛門尉盛時(みうら ごろうさゑもんのじょうもりとき)に片目であることをバカにされてしまいました。
「当家は先祖代々これと言った怨みも買っていないのに、どうして片目野郎とペア(しかも自分が下)に記帳されねばならんのだ(当家代々未だ超越の遺恨を含まざるのところ、ただに一眼の仁に書き番えらるるにあらず)……」
これを聞いた義重は怒りを露わに抗議します。
「祖先のことは知らないが、この右目はかつて承久の兵乱において敵中へ殴り込んだ武勲の証し、天下にかくれなき名誉の傷だ。若造にケチをつけられる覚えはない(累家の規模においては、誰が比肩せんや。一眼のことに至りては承久兵乱の時、抜群の軍忠をぬきんじて疵され、名誉を都鄙の上に施す。かえって面目の疵なり。今更盛時が横難におよび難し)!」
……以盛時被書載于出雲前司義重之下訖。當家代々未含超越遺恨之處。匪啻被書番于一眼之仁。剩又被註其名下。旁失面目之間。可止供奉儀之由云々。出雲前司義重聞此事。殊憤申云。於累家規摸者。誰比肩哉。至一眼事者。承久兵乱之時。抽抜群軍忠被疵。施名譽於都鄙之上。還面目之疵也。今更因覃盛時横難云々……
※『吾妻鏡』宝治元年(1247年)11月16日条
義重の抗議に盛時は返す言葉を失い、その怒りは北条実時(さねとき。義時の孫)になだめられたということです。
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終わりに
かくして坂東武者の意地を見せた波多野義重は、正嘉2年(1258年)2月20日に世を去りました。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には恐らく登場しないと思われます。しかし彼らのように勇猛果敢な御家人たちが一人々々武勇を奮ってこそ、承久の乱は勝利できたのです。
『吾妻鏡』には他にも個性豊かな武士たちが登場するので、また紹介していきたいと思います。
※参考文献:
- 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年6月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名辞典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
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