「お子さんはいないんですか?」
「みんな大きくなって、寄りつかねぇんだ」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、和田義盛(演:横田栄司)がそんなことを言っていました。
確かに劇中、和田義盛の息子はまったく姿を見せません。彼らは一体どこで何をしているのでしょうか。
そこで今回は和田義盛の息子たちを8人まとめて紹介。大河ドラマには、果たして何人登場するでしょうか。
8人の息子たち
まずは和田義盛の息子たちを8人一気に並べて把握しましょう。
長男・和田常盛(つねもり)
次男・和田義氏(よしうじ)
三男・朝比奈義秀(あさひな よしひで)
四男・和田義直(よしなお)
五男・和田義重(よししげ)
六男・和田義信(よしのぶ)
七男・和田秀盛(ひでもり)
八男・杉浦義国(すぎうら よしくに)
長男の常盛が誕生したのは承安2年(1172年)、父・義盛は当時26歳。七男の秀盛が生まれたのは正治元年(1199年、建久10年)で、義盛は53歳。さらに八男の義国(生年不詳)はそれ以降の出生ですから、老いてなお盛んだったようです。
長男から八男まで27年間以上も経っているので、さすがに全員が同母兄弟ではないでしょう。
恐らく長男の常盛から五男の義重辺りまでは側室(武蔵横山党・横山時重の娘)が産み、六男以降は正室(伊勢豊受大神宮の禰宜・度会康高の娘)が産んだものと思われます。
※あるいは六男の義信あたりまで側室の子かも知れません。年齢の大きく離れた七男以降は正室の子である可能性が濃厚です。
これらのことを前提として、さっそく息子たちのプロフィールを見ていきましょう。
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和田義盛の長男・和田常盛
【生没年】承安2年(1172年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月4日没
【通称】和田太郎
【官職】左兵衛尉(父と同じなので、区別するため新左衛門尉と呼ばれる)
名前の常は、おそらく千葉介常胤(演:岡本信人)から拝領したもの。源頼家(演:金子大地)・源実朝(演:柿澤勇人)の2代に仕えます。
正治2年(1200年)9月2日、弟の義秀が頼家から褒美に駿馬を賜わると、これを横取りしようと相撲勝負を挑みました。
なかなか勝負がつかず引き分けになったところ、義秀が服を着る前に駿馬を奪い走り去ったエピソードが有名です。
建仁3年(1203)9月2日の比企一族討伐にも出陣、他にも弓射競技に出場するなど、弓に関しては父譲りの腕前でした。
やがて和田一族と執権・北条義時(演:小栗旬)の対立が深刻化すると、嫡男の和田朝盛(とももり。三郎)は将軍家に対する忠義と和田一族への情義の板挟みになって出家。逃げ出してしまったのを、弟の義直に連れ戻させています。
そして建暦3年(1213年)5月2日に和田一族が挙兵すると(和田合戦)、大将の一人として奮闘しますが敗北。鎌倉を脱出したものの、甲斐国競石郷二木(現:山梨県都留市)で自刃して果てました。享年42歳。
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和田義盛の次男・和田義氏
【生没年】承安4年(1174年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月3日没
【通称】和田二郎
『吾妻鏡』には登場した形跡が見られず、和田合戦に際しても名前が出て来ません。『系図纂要』によると父と同じく討死したことのみ記されています。
和田二郎 同父討死 四十
※『系図纂要 平氏 三』より
享年40歳。その人生はほとんどが謎に包まれており、今後の究明が俟たれるところです。
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和田義盛の三男・朝比奈義秀
【生没年】安元2年(1176年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月5日以前没?
【通称】朝夷奈三郎、朝印南三郎など
和田義盛の息子と聞いて、もっとも有名なのがこの義秀ではないでしょうか。
とにかく力自慢で知られており、海に潜れば素手で三匹のサメを捕まえてみせたほか、鎌倉と金沢(横浜市金沢区)を結ぶ朝比奈切通しは義秀が一晩で切り拓いてしまったなんて伝承もあるほど。
そのため、怪力自慢の女武者・巴御前(演:秋元才加)との子供なんじゃないかとも言われますが(『源平盛衰記』による)、生まれた年代からその可能性はないでしょう。
※ただし生年は享年38歳から逆算したものであり、もし享年28歳=文治2年(1186年)生まれの間違いであれば、義盛と巴御前が出会っている可能性が見えて来ます。
ともあれ怪力自慢の義秀は、和田合戦において鎌倉御所の惣門を素手でぶっ壊して敵中へ乱入。次々と敵を斬り倒して「無双」しました。
しかし武運拙く敗れ去り、義秀らは兵500騎を率いて海路を安房国(現:千葉県南部)へと脱出します。
『吾妻鏡』では5月6日の戦果報告において結局は討死した扱いとなっているものの、その後も生き延びたとする伝承もあり、後者の可能性を信じたいところですね。
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和田義盛の四男・和田義直
【生没年】治承元年(1177年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月3日没
【通称】金窪四郎
【官職】左衛門尉
建暦3年(1213年)に発覚した謀叛計画「泉親衡(いずみ ちかひら)の乱」に加担していた容疑で捕縛され、2月16日に身柄を伊東六郎祐長(いとう ろくろうすけなが)に預けられます。
父の懇願によって保釈されたものの、和田合戦では5月3日の酉刻(午後18:00ごろ)、伊具馬太郎盛重(いぐ うまたろうもりしげ)に討ち取られてしまいました。享年37歳。
義盛は息子たちの中でもこの義直を特に鍾愛(寵愛)していたため、その死を知った義盛は「もはや戦う意味がない」と泣き叫びながら駆けずり回ります。
そしてついに江戸左衛門尉能範(えど さゑもんのじょうよしのり)の手によって討ち取られたのでした。
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和田義盛の五男・和田義重
【生没年】治承4年(1180年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月3日没
【通称】和田五郎
【官職】兵衛尉
兄・義直と同じく泉親衡の乱に加担したため捕縛されててしまいます。伊東八郎祐宗(いとう はちろうすけむね)に身柄を預けられ、こちらも父の懇願により保釈されました。
和田合戦では父と同じく討死。享年34歳。
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和田義盛の六男・和田義信
【生没年】文治2年(1186年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月3日没?
【通称】六郎
【官職】兵衛尉
『吾妻鏡』では和田合戦に際して父や兄たちと同じく討死した……ことになっていますが、『系図纂要』では上野国和田山(現:群馬県高崎市)へ逃れています(それで和田山という地名がついたそうです)。
後に赤坂荘(同市内)へ移住、構えた館が後に高崎城(別名・和田城)として伝えられるのでした。
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和田義盛の七男・和田秀盛
【生没年】正治元年(1199年。建久10年)生~建暦3年(1213年。建保元年)5月3日没
【通称】七郎
『吾妻鏡』でも『系図纂要』で「父と共に15歳で亡くなった」ことが短く記されるのみ。
七郎 同父死 十五
※『系図纂要 平氏 三』より
まだあどけなさを残していたであろう七郎少年。出家してでも生き延びて欲しかったところです。
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和田義盛の八男・杉浦義国
【生没年】不詳
【通称】杉本八郎
父や兄たちが討死した時点ではまだ元服もしていなかったのでしょう。『吾妻鏡』にはその名が見えず、『系図纂要』に短く記事がありました。
杉本八郎 父陣没之後蟄居近江兼併三浦杉本之字□称杉浦
※『系図纂要 平氏 三』より
元は義盛の亡父・杉本義宗(すぎもと よしむね)の名跡を継ぐため杉本を称していましたが、杉本の杉と三浦一族(和田は三浦の支族)の浦を合わせて杉浦と名乗ったと言います。
和田一族が滅んだ際に近江国(現:滋賀県)へ蟄居し、その後の消息は不明。なお、先ほど紹介した和田城は義国が築いたとの説もあります(※箕郷町教育委員会などによる)。
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終わりに
以上、和田義盛の息子たち8名を一気に紹介してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこのうち何人が登場して、誰がキャスティングされるのでしょうか。
少なくとも義秀は出て来そうですが……彼が和田合戦でどんな無双を見せてくれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要』内閣文庫
- 高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年5月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年11月
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