長篠の合戦(天正3・1572年)以降、反転攻勢へと向かった徳川家康(演:松本潤)。しかし武田勝頼(演:眞栄田郷敦)も負けてはいません。
両雄の戦いは激しさを増しながら、時は天正6年(1578年)に差し掛かりました。
井伊直政18歳の初陣
……天正六年武田四郎勝頼は志きりに遠三両州を侵掠せんとして志ばゝゞ勢を出せば。浜松よりも武田がかゝへたる駿州田中の城をせめたまはんとて彌生の頃御出馬あり。井伊萬千代直政ことし十八歳初陣なりしが。真先かけて手勢を下知する挙動。天晴敵味方の耳目を驚かす。其外小山の城責。国安川横須賀等の戦いつはつべしとも見えざる處に。……
※『東照宮御實紀』巻三 天正六年-同七年「天正六年勝頼侵遠参」
天正6年(1578年)に入っても、勝頼はしきりに遠江と三河を切り取ろうと兵を出してきました。家康はこれを受けつつ、敵の背後を衝こうと3月に駿河の田中城へ攻め込みます。
この時、万千代こと井伊直政(演:板垣李光人)が18歳で初陣を果たしました。徳川勢の真っ先駆けて巧みに兵を指揮する様は、敵味方ともに天晴れなりと驚きました。
その後も小山城を攻め、国安川や横須賀(静岡県)など数々の激闘がいつ果てるともなく続く中……。
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上杉謙信が急死、家督争いを制した上杉景勝
……越後の上杉謙信此月十三日四十九歳にて世をさりぬ。これより先に入道は小田原の北條氏康の子の三郎景虎と。姪(甥)の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人国をあらそふ事たえず。景勝心ときおのこなれば。勝頼が寵臣長坂跡部といへる者をかたらひ。こがね二千両づゝを贈り。勝頼が妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に属すべし。先は常座の謝儀として上野一国にこがね一万両そへて進らすべし。いかにも加勢し給はるべしと申送れば。利にふける勝頼主従速に応じ。終に景虎を伐亡して景勝父謙信の家をつぐ。……
※『東照宮御實紀』巻三 天正六年-同七年「謙信卒」
越後の龍と恐れられた上杉謙信(うえすぎ けんしん)が、3月13日に49歳で世を去ります。
謙信には実子がなく、養子が2人おりました。一人は北条氏康(ほうじょう うじやす)の息子であった上杉三郎景虎(さぶろうかげとら)、もう一人は甥の上杉喜平治景勝(きへいじかげかつ)。
どっちが上杉の家督を継ぐか互いに譲らず、とうとう争いが勃発。これが後世に伝わる「御館の乱」です。
この時に景勝は勝頼を味方につけるため、まずは勝頼の寵臣である長坂光堅(ながさか みつかた)と跡部勝資(あとべ かつすけ)に黄金2,000ずつ賄賂を贈りました。
両名を懐柔したら、続いて勝頼に「我らにお味方下されば、それがしは御屋形様の婿となり、この先ずっと武田家に臣従いたします」と約束します。
加えて謝礼として上野国と黄金10,000両を献上すると申し出ました。これを聞いた勝頼は欲に目が眩んで景勝に味方し、上杉景虎を滅ぼしました。
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終わりに
……勝頼もとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心まよひ。氏政が弟の三郎を亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り。いかにしてもこの怨を報ぜんと思ひ。やがて 当家にちなみ進らせ。織田家へもよしみをむすぶ。……
※『東照宮御實紀』巻三 天正六年-同七年「氏政絶武田氏通徳川氏」
しかし勝頼は北条と同盟を結んでおり、上杉家のことだからと言って景虎を滅ぼした暴挙は許しがたいものです。
北条氏政(うじまさ。景虎の兄で家督を継いでいた)は大いに怒り、何としても武田を滅ぼそうと徳川はもちろんのこと、織田信長(演:岡田准一)とも手を結んだのでした。
北条と徳川・織田が手を組んだことにより、勝頼は東西から翻弄されることに。そして天正10年(1582年)には滅亡の憂き目を見るのでした。
勝頼がいっときの欲で盟友を見捨てなければ、もう少し違った未来が見えていたことでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、勝頼の葛藤と決断がどのように描かれるのか、注目したいですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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