遠江国を平定した徳川家康(演:松本潤)は、武田信玄(演:阿部寛)と対決する前線拠点として、見付城(みつけじょう。見附城、城之崎城。静岡県磐田市)の大改修を始めました。
しかし、それを聞いた織田信長(演:岡田准一)は「見付ではダメだ、お前自身が曳馬城(引間城)へ移れ」「それと曳馬では縁起が悪いから名前も変えろ」などなど注文します。
本当は瀬名(演:有村架純。築山殿)と一緒にいたかったのに……曳馬を浜松と改名した家康は、泣く泣く岡崎に瀬名と嫡男・徳川信康(演:寺嶋眞秀)たちを残したのでした。
さて、家康の拠点が父祖伝来の岡崎城から新天地の浜松城へ移り、物語は新たな展開を迎えます。
ところで、既に大普請を行っていた見付城は、その後どうなったのでしょうか。
今回はそんな疑問に答えるべく、NHK大河ドラマ「どうする家康」にはもう登場しないであろう見付城について紹介したいと思います。
一年かけて大改修したが……
家康が見付城の普請を始めたのは永禄12年(1569年)。『遠江国風土記伝』にこのような記述がありました。
……三河記(巻四)曰、永禄十二年正月、家康公見付の端城を破り給ひ新城を築ト云リ(新城は今の城の崎之)今見端城之郭爲鹿柴古駅路ハ爲樵路也、於城之崎之新城亦准之……
『遠江国風土記伝』巻第六 磐田郡
北に東海道が走り、南に船の出入りできる入江があったことから水陸交通の要衝として知られた見付。家康はそこに目をつけて遠江の拠点に考えたと言われています。
大改修は一年ほどに及びましたが、家康は結局この見付城を未完成のまま放棄。けっきょく浜松へ移るのでした。
……永禄十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規模広麗近国にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「元亀元年家康移于浜松城」
家康が岡崎から浜松へ移ったのは永禄13年=元亀元年(1570年)1月。大河ドラマの劇中では姉川合戦(同年6月28日)の陣中という設定ですが、その時点では既に浜松へ移っていたのでした。
また、文中には「浜松の城規模広麗近国にすぐれければ(意:浜松の城は大きくて立派、一帯のどの城よりもよかったから)……」という表現があります。
ここから察するに、恐らく家康はウキウキで移転し、岡崎城は嫡男の信康に「任せたぞ!」という気持ちだったのではないでしょうか。
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なぜ見付城は放棄されたのか?
でもせっかく多額の費用をかけて見付城を大改修したでしょうに、もったいないですよね。
その理由はハッキリしないものの、原因としては(1)天竜川を背にしている=すぐ西に流れているため、対武田戦に不利。(2)海が近いためか、用水不足が心配される。(3)地元町衆の自治が強く、家康に非協力的だった……などが考えられます。
かくして放棄されてしまった見付城。それから数百年の歳月を越えた昭和56年(1981年)、本丸跡(本曲輪)には野球場が建設されました。
また土塁の一部はスタンドにも活用され、今も10メートル以上の高さでそびえ立つ迫力に、見付城に注いだ家康の情熱が偲ばれます。
かつて死闘が演じられた城跡で、今は高校球児が熱戦を繰り広げている光景に、平和の尊さを感じずにはいられません。
今後、野球場の改修タイミングでまた新たな発見があるかも知れませんね!
※参考文献:
- 水野茂 編著『今川氏の城郭と合戦』戎光祥出版、2018年12月
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『遠江国風土記伝』国立国会図書館デジタルコレクション
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