人は城、人は石垣、人は堀……戦国時代、とかく人材を重視した武田信玄(たけだ しんげん)の下には多くの名将が集まり、彼の覇業を支えました。
今回はそんな一人である土屋昌続(つちや まさつぐ。土屋昌次)を紹介。信玄に寵愛された「奥近習六人衆(おくきんじゅうろくにんしゅう)」の筆頭格として、主君の寵愛に報いたのです。
川中島の初陣、若くして異例の抜擢
土屋昌続は天文14年(1545年)ごろ、武田家の一門衆・金丸虎義(かねまる とらよし)の次男として誕生しました。
通称は平八郎(へいはちろう)、奥近習六人衆に取り立てられた際に同僚ともども「昌」の字を与えられて昌続と名乗ります。
【奥近習六人衆】
- 甘利昌忠(あまり まさただ)
- 三枝昌貞(さいぐさ まささだ)
- 真田昌幸(さなだ まさゆき。武藤喜兵衛)
- 曽根昌世(そね まさよ)
- 長坂昌国(ながさか まさくに)
初陣は永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦。『甲陽軍鑑』によると、この時の武功によって坂東平氏・三浦氏の流れをくむ土屋氏の名跡を継いだと言われます。
その後、永禄12年(1569年)に侍大将に昇格。土屋の名跡はこの辺りで継いだという説も。20代での抜擢は武田家中でも異例(※)で、他の六人衆は足軽大将に留まっていました。
(※)内藤昌秀(ないとう まさひで)と山県昌景(やまがた まさかげ)がそれぞれ41歳、馬場信春(ばば のぶはる)が51歳とあり、侍大将への昇格は概ね40~50代くらいだったようです。
信玄の寵愛ぶりは家中での席次にも表れており、歌会においては御膳担(おものやく。ご飯をよそう係のイメージ)として信玄の隣に座ったといいます(他の五人は配膳担)。
昌続「はい、御屋形様。あーん」
信玄「あーん♪」
※筆者の空想(妄想?)です。
また「信玄公御座をなをし(御座=お布団を直す)」つまり夜伽役も務めており、信玄を守るために四六時中気が抜けなかったことでしょう。
スポンサーリンク
信玄の死・そして長篠で壮絶な最期
その後も信玄の側近・奉行衆として政治に軍事に奔走した土屋昌続。徳川家康と対決した元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原合戦では、三河の猛将・鳥居忠広(とりい ただひろ。鳥居元忠の弟)と一騎討で倒す武勲も立てました。
しかし翌元亀4年(1573年)4月12日に信玄が陣没すると、昌続はその場で殉死を図ります。
「たわけ!そなたが死んで、御屋形様が喜ばれると思うのか!そなたのなすべきは、どこまでも武田の御家を支えることであろう!」
重臣の高坂昌信(こうさか まさのぶ。春日虎綱)に諭され、自害を思いとどまった昌続。しかし「いつまでも側にいたい」とワガママを言って、甲府まで連れ帰った遺骨を自宅の庭先に埋葬したのでした。
※3年後に遺骨は恵林寺に改葬され、昌続の庭先は現在も信玄公墓所となっています。
そして天正3年(1575年)5月21日「長篠の戦い(設楽原の戦い)」で討死。山県昌景ら宿老と共に無謀な出撃を諫めたものの、信玄の跡を継いだ武田勝頼(かつより)に聞き入れてもらえなかったのです。
織田・徳川連合軍の銃撃(三段撃ち?先着順自由連射?)によってあえなく散華した昌続。その首級は家臣の温井左近昌国(ぬくい さこんまさくに)が切り落とし、甲斐国まで連れ帰ろうとしました。
しかし逃げきれなかったため首級を埋め、左近も自刃して果てたということです。現在、その場所には温井左近昌国の墓が伝わっています。
スポンサーリンク
終わりに
以上、信玄・勝頼の武田家二代に仕えた土屋昌続のエピソードを紹介してきました。
智勇を兼ね備えた名将であった昌続は後世「武田二十四将」にも数えられ、今も多くの武田ファンに慕われています。
NHK大河ドラマ「どうする家康」には登場しませんでしたが、阿部寛が演じた信玄公がその傍らに美青年がはべらせていたら、さぞ絵になったでしょうね。
ぜひ観たかったなぁ……ゲフンゲフン。ともあれ、武田家には他にもたくさんの名将たちがいるので、また改めて紹介したいと思います!
※参考文献:
- 黒田基樹ら編『武田氏家臣団人名辞典』、東京堂出版、2015年5月
- 柴辻俊六 編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年6月
スポンサーリンク
コメント