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人望ありすぎ!どこまでも清廉な政治を貫いた平安貴族・紀夏井のエピソード

平安時代
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「政治家なんて、誰がやってもみんな同じ」

近ごろよく聞くフレーズですが、およそ為政者なんてものは

(1)いかに国民から搾取し、かつ

(2)その地位に居座り、そして

(3)権力を味わう≒周囲に威張り散らすか

……以外のことにはあまり興味がない、というのが古今東西お約束(もちろん、ごくわずかに例外もいますが)。

いなくなって欲しい政治家(イメージ)

だから大抵の民衆は、現在の為政者に対して「さっさと失せろ!」と呪いの言葉を呑み込み、「誰でもいいから代わってくれ!」と切望。果たして政権交代が行われるたびに「今度こそは……!」という一縷の望みを踏みにじられてきたのです。

まぁ要するに「為政者なんてロクなのがいないから、一刻も早く交代するか、出来ることなら居なくなって欲しい」というのが本音のようです。

しかし世界は広く、歴史は長いもの。中には「辞めないで!」「行かないで!」と民衆から慕われた政治家も実在したと言いますから、人間まだまだ捨てたモンじゃないのかも知れません。

そこで今回はそんな一人、平安時代に活躍した紀夏井(きの なつい)のエピソードを紹介したいと思います。

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文徳天皇に見い出された疲駿

紀夏井は生年不詳、美濃守(美濃の国司)を務める紀善峯(よしみね)と石川(いしかわ)氏の間に生まれました。

伝承によると大らかな性格で、その身の丈は6尺3寸(約190cm)という大男だったと言います。

どことなくボンヤリした印象を受ける風采とは裏腹に幼いころから利発で、諸道に才能を現したことから周囲の大人を驚かせたそうですが、承和4年(837年)に父が亡くなると経済基盤を失って生活は困窮。

永らく不遇を託(かこ)っていたものの嘉祥3年(850年)、広く天下の人士を求めた文徳天皇(第55代)に才能を認められ、少内記(正八位上)の地位を与えられます。

夏井の才能を見出した文徳天皇。法金剛院蔵

文徳天皇の御前に召し出された時、永年の貧乏暮らしにやつれ切った夏井の姿を見た朝廷の近臣たちはクスクス嘲笑しましたが、文徳天皇はそれをたしなめました。

「これは疲駿(ひしゅん。疲れた名馬)であり、きちんと栄養と休息をとらせれば、天下に名高い走りを見せてくれるだろう」

「ありがたき仕合せ、浅学非才の身ながら、必ずやご期待に沿えるよう精進いたします!」

元から真面目な性格の夏井は、文徳天皇の期待に応えるべく職務に精励、仁寿4年(854年)には六位蔵人(ろくいのくろうど)、同年中に美濃少掾(みののしょうじょう)を兼任するほどの信頼を得ました。

美濃少掾とは国司(美濃守)を補佐する役職(守⇒介⇒掾)で、六位蔵人よりも上位でしたが、文徳天皇のそば近くに仕えることの出来る方がいいから、と美濃少掾の官職を兄・紀大枝(おおえだ)に譲ります。

「兄上。どうか美濃の人々を安んじ、この俸禄をもって母上に楽をさせてあげて下され」

「相分かった。そなたの孝心、母上もいたくお喜びぞ」

高い俸禄よりも天皇陛下のおそば近くに仕えたい……そんな忠義の心が認められて、年の明けた斉衡2年(855年)に大内記(正六位上)、続いて右少弁(従五位下)とトントン拍子に昇進。

ついに内裏へ昇殿できる殿上人(てんじょうびと。五位以上の貴族)、つまり貴族として一人前と認められるようになったのです。

※六位蔵人はその名の通り六位ですが、天皇陛下の身辺をお世話する名誉職であり、例外的に昇殿が許されていました。

「此度の昇進、誠にめでたいのぅ……しかし、殿上人にもなって『家もない』というのは流石に忍びないのぅ……」

何と、夏井はその清貧ゆえか自分の家を持っていなかったとのこと。借家暮しだったのか、他人の家を間借りしていたのか、あるいは家とも呼べない掘立小屋で暮らしていたのでしょうか。

まさかホームレス状態ではないと思いますが……ともあれ文徳天皇は夏井にきちんとした邸宅を与えます。

「有り難き仕合せにございまする!」

この御恩に応えるべく、より一層職務に励んだ夏井は斉衡4年(857年)に右中弁(従五位上)へ昇進。より高位へ昇るほど、水を得た魚のように才能を発揮したそうです。

時には文徳天皇の耳に痛い諫言をすることもあったそうですが、たとえ一時は不興を買ったとしても、自分の利害を顧みない公明正大な態度が却って信頼を得たと言います。

讃岐国・肥後国で治政の実績を上げるが……

さて、そんな調子で政治の才能を開花させた夏井。更なる転機が訪れたのは、文徳天皇が崩御され、第56代・清和天皇が即位された天安2年(858年)。

清和天皇。Wikipediaより

「かねてそなたの才能を見込んで、讃岐守(讃岐の国司)となってもらいたい」

「ははあ」

いよいよ一国の主として、その手腕を存分に奮うことができる……喜び勇んで現地に赴任した夏井はますます政務に励みました。

その結果、治安は改善して人々は夜に戸締りをしなくてもよくなり、道に宝が落ちていても盗む者はいなくなったと言います。

また生産も向上して人々は飢えることがなくなり、年貢を納めてもなお食糧を貯えることができたため、人々は将来の希望を持って働いたそうです。

どのような手法を用いてそのような実績を上げられたのかは史料に詳しい記録がないものの、夏井が人々に「みんなで支え合えば、必ず社会が豊かになる」ことを説き、自ら模範を示したことは間違いないでしょう。

およそ役人の評価というものは赴任時や在任中よりも退任時に現れるもので、夏井が国司の任期4年間をまっとうして都へ帰ろうとしたところ、領民たちから「もっと居て下さい」という嘆願が多数届いたと言います。

「まぁ、そこまで言ってくれるなら……」

人々の声を受けて任期をもう2年延長した夏井ですが、いかに彼が慕われていたかがよく解りますね。

しかしいつまでも讃岐国ばかりには居させてもらえず、今度は「肥後国の政治を改善して欲しい」ということで貞観7年(865年)、夏井は肥後守を拝命します。

栄転にさぞやお喜び下さるだろうと母に報告したところ、意外にも泣き出してしまいました。

「せっかくの栄転なのに、どうして悲しまれるのですか?」

「肥後国ははなはだ野蛮で、かつ汚職や犯罪が蔓延していると聞きます。そなたのように真正直な人間は、きっと職務をまっとうできずに終わるでしょう」

およそ清濁併せ吞むことを知らない(あるいは出来ない)人間は、淘汰されてしまうのが世の習い……母の嘆きはもっともながら、それでも夏井は言いました。

「ご心配召されますな。私はただ与えられた務めに最善を尽くすだけのこと。誠をもってすれば、その姿をお天道様は必ず見届けて下さいますし、万が一天が私をお見捨てあそばすなら、そんな者はいなくなった方が却って世のため……どう転んでも、悲しむことはないのです」

心の底から自分を勘定に入れず、ただひたすらに世の中が少しでもよくなるばかり願っている……そういう夏井だからこそ、人々に慕われてきたのでしょう。

「まったく、そなたという子は……」

自ら是と信じたならば、敵幾万とて我征かん。言い出したら聞かない以上、せめて気持ちよく送り出すだけ……果たして母に見送られ、肥後国へと赴任した夏井は、ここでも誠の限りを尽くして善政を布きます。最初は懐疑的であった領民たちも、ほどなく心服するようになりました。

応天門の変。常磐源二光長『伴大納言絵詞』

ここで話はめでたしめでたし……としたいところですが、残念ながらそうは行きません。夏井が肥後国へ赴任してから翌年の貞観8年(866年)、中央で応天門の変が起こります。

土佐国へ流罪となり、別れを惜しむ領民たち

応天門の変とは、ごくざっくり言うと京都・応天門の放火・炎上をキッカケとして藤原(ふじわら)氏が大納言の伴善男(ともの よしお)はじめライバル勢力を謀叛人=放火犯として排斥した事件です。

遠く肥後国にいる夏井はまったく無関係に見えます。実際そうなのですが、夏井の異母弟である紀豊城(とよき)が伴善男に仕えており、共謀者とされたことから連帯責任(※)を問われたのでした。

(※)親族というだけで、明らかに無関係の者を流罪とはいくら何でも刑が重すぎですが、藤原氏としてはそれだけ(将来的にライバルとなり得る)夏井の存在を恐れていたのかも知れません。

夏井にしてみればとばっちり以外の何ものでもないものの、悪法もまた法。夏井は土佐国への配流(流刑)に従います。

「まぁ、仕方あるまい……」

九州の肥後から四国の土佐へ……現代的な感覚だと「流刑というより、むしろ京都に近づいたのでは?」と思ってしまいそうですが、当時の土佐は三方を険しい山脈に囲まれ、残る南は荒波にもまれる陸の孤島でした。

「おい、国司(夏井)様が土佐へ流されるってよ!」

「そんなバカな!あんなにいい政治をなさる方が罪に問われるはずがない!」

「これは何かの間違いだ!みんなで国司様を肥後に留めるぞ」

「「「おおぅ……っ!」」」

肥後の領民たちは大挙して押し寄せ、夏井が護送される街道を封鎖。国外へ出してなるものかと必死です。

土佐国へ流される紀夏井。罪人の笠をかぶっている。菊池容斎『前賢故実』より

「俺たちの国司様を返せ!」

「いい加減な裁判をするな!きちんとやり直せ!」

「国司様が罪に問われるようなら、それは法が間違っているんだ!」

護送の役人たちは、これ以上進もうものなら殺されかねない勢いにたじろいでしまいます。ついには夏井自らに「潔白を証明して、すぐに帰って来るから心配するな」などと説得させる始末。

「どうか、どうか早く帰ってきて下せぇよ!」

「あぁ。みんな、ありがとう」

ようやく肥後国から出られた?夏井一行は九州から四国へ渡り、伊予国・讃岐国(※)と至りました。すると讃岐国でも、かつて夏井の恩義を忘れなかった領民たちが、みんなこぞって大歓迎。

(※伊予⇒土佐と行けば早いように思えますが、この国境は山脈が険しすぎて通行が困難でした)

「国司様、また戻ってきてくれたんですか……え、流罪?」

「そんなバカな!絶対に何かの間違いだ!」

「おい小役人ども、国司様に何かあったら、ただじゃおかないからそう思え……」

ここでも夏井がみんなを説得し、ようやく土佐国へ入ることが出来たそうです。

夏井の人望を目の当たりにした護送の役人たちは、さぞや当局の見る目を疑い、また権力抗争によって有為の人材が失われる虚しさを痛感したことでしょう。

エピローグ

その後、土佐国へ入った夏井が華麗なカムバック……を果たせば最高だったのですが、悲しいかなそんな記録がないことから、ほどなく土佐国で没したと思われます。

夏井と較べられて苦労した?菅原道真。月岡芳年「月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香」

しかし夏井の存在がすぐに忘れ去られてしまった訳ではありません。仁和2年(886年)に讃岐守として現地に赴任した菅原道真(すがわらの みちざね)は、善政に努めたものの何かと夏井と比較されてしまい、とても苦労したとか。

讃岐の地を去ってから20年以上の歳月を経てもなお、人々の心に残る政治を実現した夏井の偉大さは、千年以上の歳月を越えて私たちに大切なことを教えてくれています。

※参考文献:

  • 佐藤 謙三ら訳『読み下し 日本三代実録 上巻』戎光祥出版、2009年10月

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