織田信秀(おだ のぶひで)・織田信長(のぶなが)の二代に仕えた忠臣・平手政秀(ひらて まさひで)。
若き信長(幼名:吉法師)の傅役(もりやく。教育係)を仰せつかるも、大うつけぶりに振り回され、最後は面倒見切れぬとばかり切腹してしまいました。
そんな「不憫キャラ属性」高めな政秀ですが、実際のところはどんな人物だったのでしょうか。
今回は平手政秀の生涯をたどってみたいと思います。
外交方面で活躍した文化人
平手政秀は延徳4年(1492年)5月10日、平手経秀(つねひで。経英とも)の子として誕生しました。
幼名は狛千代丸(こまちよまる)、元服して初めは清秀と改名。五郎左衛門(ごろうざゑもん)の通称で呼ばれます。
官途(かんど。私称の官職)は監物(けんもつ)、後に中務丞(なかつかさのじょう)と名乗りました。
政秀は主に外交方面で活躍。天文12年(1543年)には上洛して朝廷との交渉を行い、天文17年(1548年)には美濃の斎藤道三(さいとう どうさん)との和睦をとりまとめます。
また茶の湯や歌道にも嗜みが深く、天文2年(1533年)に尾張を訪れた公卿の山科言継(やましな ときつぐ)を居城の志賀城(尾張国春日井郡。愛知県名古屋市)に迎え、そのもてなしを賞賛された程です。
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信長の傅役を務める
少し前後して、天文3年(1534年)に信長が生まれるとその傅役を拝命。次席家老となりました。
信長が14歳となった天文16年(1547年)には後見役として見事に初陣を支え、戦陣における作法などを指南します。
翌天文17年(1548年)には斎藤道三の娘・濃姫(のうひめ。帰蝶、道三の娘)との縁談を媒(なかだち)しました。
このまま順調に行けばよかったのですが、天文21年(1552年)に信秀が亡くなると、次第に信長との関係が悪化してしまいます。
信長にしてみれば「もう父上もおらぬし、これからは、わしの好きにさせてもらうぞ」といったところでしょうか。
そして天文22年(1553年)閏1月13日、政秀は自刃して果てたのでした。享年62歳。
なぜ政秀は自刃したのか?
政秀が自刃した動機については、諸説あります。
よく言われるのが「信秀の葬儀に際して、信長が位牌に抹香をぶちまけた。自分の教育不行き届きを恥じて、また信長を諌めるために自刃した」というもの。
しかしそれなら葬儀の直後に腹を切るでしょうし、年をまたぐのは不自然です。
他には政秀の息子である平手五郎右衛門(ごろうゑもん。誰に当たるかは諸説あり)の駿馬を信長が横取りしようとし、これを拒否したために諍いが生じた結果とする描写が『信長公記』にあります。
また信長の大うつけぶりに愛想を尽かした重臣たち(※)が、実弟の織田信勝(のぶかつ。織田信行)を推し、彼らと対立した結果追い込まれた説もあるそうです。
(※)信勝の後見役である柴田勝家(しばた かついえ)や家老の林秀貞(はやし ひでさだ。林通勝)・林通具(みちとも)兄弟など、信長にとって看過できない勢力を形成していました。
【平手政秀の自刃理由・諸説まとめ】
(1)信長の大うつけぶりを諌めるため
(2)信長と不和が生じたため
(3)信勝派との政争に敗れたため
有力な後見役を喪った信長は悲しみにくれたと言います。しかしそれでも大うつけぶりは変わりませんでした。となるとやはり(3)信勝派との政争敗北説に説得力を感じます。
自分をかばうために命を捨てた政秀。それを悲しむなら、普通はここで振る舞いを改めるでしょう。
しかし信長にも考えがあった。だからこそ、信長は大うつけぶりを改めなかったものと考えられます。
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エピローグ
これからは、自分一人で闘わねばならない。信長は政秀のために寺院を建立。その名も政秀寺(せいしゅうじ。開山は沢彦宗恩)、まさに政秀を偲ぶための寺院でした。
戒名は政秀寺殿功菴宗忠大居士(せいしゅうじでんこうあんそうちゅうだいこじ)。何だか読んでいるだけで爺やのしかめっ面が目に浮かぶようです。
なお、政秀の首塚(自刃を介錯=斬首しているため)は東雲寺にあります。何で胴体と一緒に葬らなかったのか、不思議ですね。
以上、平手政秀の生涯をたどってきました。後に信長が天下人として躍進を遂げたのは、彼の教育がよかったのかも知れませんね。
【平手政秀・基本データ】
生没 | 延徳4年(1492年)5月10日生~天文22年(1553年)閏1月13日没(享年62歳) |
改名 | 狛千代丸⇒平手清秀⇒平手政秀 |
通称 | 五郎左衛門、監物、中務丞 |
両親 | 平手経秀、母不詳 |
兄弟 | 政秀、野口政利(子の説あり)、平手季定、平手長成 |
妻妾 | 不詳 |
子女 | 平手長政(異説あり)、平手久秀、平手汎秀(久秀の子説あり)、埴原寿安、お清(雲仙院、織田有楽斎長益室) |
死因 | 切腹 |
戒名 | 政秀寺殿功菴宗忠大居士 |
墓所 | 【菩提寺】政秀寺(名古屋市中区) 【墓碑】平和公園内政秀寺墓地(名古屋市千種区) 【首塚】東雲寺(名古屋市西区) |
史跡 | 平手政秀邸址(愛知県名古屋市北区平手町) |
※参考文献:
- 加藤國光 編『尾張群書系図部集』続群書類従完成会、1997年11月
- 柴裕之 編『尾張織田氏 論集 戦国大名と国衆6』岩田書院、2011年11月
- 『信長公記 巻之上』国立国会図書館デジタルコレクション
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