時は天正12年(1584年)4月9日、小牧・長久手の合戦において討死した羽柴方の大勝・森長可(長一、鬼武蔵)と池田恒興(勝入入道)。
共に織田信長の時代から武功を重ねた歴戦の勇士でしたが、徳川勢の老獪な戦術を前にあえなく命を落としてしまいます。
NHK大河ドラマ「どうする家康」ではこの両将の最期を伝令のセリフで片づけて(割愛して)しまいましたが、実にもったいない限りでした。
そこで今回は、一日の戦で敵将二人を討ち取った猛将・安藤直次(あんどう なおつぐ)を紹介。小牧・長久手の激闘における活躍ぶりに、血沸き肉躍ることでしょう。
安藤直次の生涯を駆け足でたどる
安藤直次は弘治元年(1555年)、徳川家(松平家)に代々仕えた忠臣・安藤家の長男として誕生します。
【安藤氏略系図】
安倍仲麻呂……安倍朝任(鳥羽院より藤原氏の姓を賜わり、安倍+藤原=安藤を称す)―(14代略)―安藤家重(太郎左衛門)―安藤基能(木工助)―安藤直次―安藤直治―安藤義門―安藤直清―安藤直名―安藤陳武(のぶたけ)―安藤陳定(のぶさだ)―安藤雄能(かずよし)―安藤次由(つぐゆき)―安藤寛長―安藤次猷(つぐのり)―安藤直矢(なおのぶ)―安藤捐吉(すてきち)……
※『寛政重脩諸家譜』巻第1113藤原氏 支流 安藤(※諸説あり)
幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川合戦で初陣を果たしました。
その後は甲斐の武田家と戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦で父・安藤基能を喪ってしまいますが、天正3年(1575年)の長篠合戦で武田兵を蹴散らすのです。
小牧・長久手の合戦では後述のとおり大活躍し、天正18年(1590年)に家康が豊臣秀吉の命で関東へ転封されると、所領1,000石を賜わりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では家康の使番として従軍、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍となった際にはその儀礼に供奉します。
慶長10年(1605年)になると武蔵国に2,300石を加増。本多正純や成瀬正成らと並び重用され、江戸幕府における政権の舵取りを担いました。
慶長15年(1610年)には家康の十男・徳川頼宣付きの家老となり、慶長19年(1614年)から同15年(1615年)にかけて起こった大坂の陣でも参戦しています。
※大坂夏の陣において長男の安藤重能が討ち取られてしまいました。
元和3年(1617年)には遠江掛川城主となり、元和5年(1619年)に頼宣が紀州の和歌山城へ移るとこれに随行、紀州田辺城に所領38,000石を与えられます。
そして寛永12年(1635年)5月13日に81歳で世を去ったのでした。戒名は崇賢藤岩院、墓所は岡崎の妙源寺(愛知県岡崎市)にあり、今も人々を見守っていることでしょう。
スポンサーリンク
鉄砲を射かけて敵を大混乱に
さて。駆け足とは言いながら、実に充実した人生でしたね。それではいよいよ本題である小牧長久手の合戦について『寛政重脩諸家譜』の記述をひもときたいと思います。
……十二年四月九日長久手の役に御先備の勢合戦にをよび、豊臣秀次が軍敗走す。味方の勢其騒乱に乗じて追撃しかば、池田勝入、其男之助、森長一、堀秀政等後軍のくづるゝをきゝて半途より引かへし、長久手にむかひて撃戦するのところ、山陰より御馬を進めたまふ。敵御旗御馬印を見てしらみて進み得ず。ときに味方の勢御旗下の間を隔て山際より鉄砲をはなつ。直次御傍にありてかの鉄砲をこなたへ引わけて敵にむかつてはなたば、しかるべきよしを申す。台慮もまた直次の意のごとしとて、其申せし所より鉄砲をはなたしめたまふ。敵軍果してこれがために乱れたつ。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千百十三 藤原氏(支流)安藤
天正12年(1584年)4月9日、長久手の前哨戦で豊臣秀次(秀吉の甥)率いる軍勢が敗走。味方はこれに乗じて追撃すると、池田恒興とその息子である池田之助(ゆきすけ。元助)、森長一(長可)に堀秀政らが馬首を返して応戦しました。
そこへ家康が山の陰より進軍、敵は家康の馬印(扇)を見ると、たちまち震え上がって戦意を喪失してしまったそうです。
そこへすかさず鉄砲が放たれ、羽柴方は大混乱に陥ったのでした。かねて直次が家康に進言し、家康に採用された作戦が功を奏したのでした。
スポンサーリンク
「鬼武蔵」森長可を討ち取るも、その手柄を仲間に譲る
……直次進み戦て敵地にはせいる。時に手負たる武者あり。其首をとらんとせしところ、本多八蔵某がはせ来るをみて功を渠にゆづりてうちとらしむ。これ森長一なり。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千百十三 藤原氏(支流)安藤
「者共、かかれ!」
直次は軍勢を率いて敵中深く斬りこんでいくと、手負いの武者を見つけます。
「名のある将とお見受けした!御首級(みしるし)、頂戴仕(つかまつ)る!」
果たして討ち倒し、いざ首を取ろうとしたところ、若輩の本多八蔵がやって来ました。
「おい、この首級をそなたにやろう。手柄にせぇ」
実はこれが「鬼武蔵」と恐れられた森長一だったのですが、そんな事には構わず次の敵を求めて直次は突き進むのでした。
スポンサーリンク
豈一人の功を専にせむや……井伊直政を諫める
……なをすゝんで前なる敵を追ちらす。こだかきところに黒母衣かけたる敵兵三十人ばかりあつまる。直次鎗をとつて突てかゝる。其勇気におそれ、敵ひらき退く。こゝに井伊直政敵兵と組で雌雄を決せず。直次ことばをかけてはせよるのところ、つゐに敵を組ふせ討とりしかば、直次諫めて、をよそ諸軍を下知する人は進退にかなふをむねとす。豈一人の功を専にせむやといふ。直政これをきゝてすみやかに帰りて其軍伍をとゝのふ。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千百十三 藤原氏(支流)安藤
直次が進んでいくと、小高いところで黒母衣をかけた敵兵が30騎ほど集まっていました。母衣は広く馬廻(大勝の親衛隊)などが着用し、名立たる者の証と言えます。
「いざ、勝負!」
喜び勇んで直次が突撃すると、敵は気魄におののいて道を開けました。
「何じゃ手ごたえのない……ん?」
見ると敵兵と組討ちを挑んでいる一人の武者。あれは味方の井伊直政ではありませんか。
「助太刀申す!」
「それには及ばぬ!」
敵が直次に気をとられた隙を衝いて直政が敵を討ち取りました。ひとまず無事でよかったですが、直次は直政を諫めます。
「一軍を率いる大将たる者が、一対一で命のやり取りをして何とされますか。そんな小さな手柄にこだわらず、兵を率いて戦いなされ」
「相分かった」
直政はただちに自分の部隊に戻り、隊列を整え直したのでした。
スポンサーリンク
池田恒興に挑み、池田之助を討ち取る
……このとき直次勝入に鎗つけ、永井直勝其首をとる。其男之助父が死を聞ておどろきはせきたる。直次鎗をもつてつきたふし、首をとり、又敵兵一人を突て其帯る所の刀を分捕す。ときに直次が鎗おれしかば、とるところの刀をもつて傍の人の鎗にかへ、すみやかに敵首一級を得たり。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千百十三 藤原氏(支流)安藤
なおも戦い続けていると、直次は池田恒興を発見。鎗をしごいて挑みかかります。
「そこなるは、池田勝入殿とお見受けした!鎗合わせ願おう!」
「おう、やらいでか!」
両雄は一歩も譲らず鎗を合わせ続けますが、あまりの連戦で直次の鎗が折れてしまいました。
「ハハハ、武運尽きたな。食らえ!」
「何の、まだまだ!」
勝ったも同然と繰り出される恒興の鎗をかわしながら、太刀を抜いて応戦します。
するとそこへ駆けつけたのが味方の永井直勝。恒興を鎗で突き倒し、落馬したところの首級を獲りました。
「池田勝入、永井伝八郎が討ち取ったり!」
「何だと!」
父の死を聞いた池田之助がやって来ると、今度は直次が折れ残った鎗でこれを仕留め、首級を上げます。
「やっぱり鎗が短いと使いにくい。どこかに余分はないものか……」
すると敵の一人がよい刀を持っていたので、直次はこれを倒して刀を奪いました。そして味方の一人とこの刀と鎗を交換してもらったそうです。
スポンサーリンク
家康大絶賛、恩賞に名弓を賜わる
……なを前なる敵をうたむとこゝろざしけれども、をのれが功をたてんとにはあらず。唯君の難をはからはんと欲するゆへなりとて、軍を全して小幡山に帰る。是時にあたつて終日飢を忘れてこゝろざし軍事にあり。晩にをよびて東照宮に拝謁す。其所為すこぶる武事に老せるものゝごとし。其勇功抜群のみならず、一日の内に敵の大将二人をうつはまれなる事なりとて、賞誉せられ、雪荷作の御弓をたまはる。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第千百十三 藤原氏(支流)安藤
さぁ、次の敵はどこだ?なおも戦い続ける直次ですが、ひとまず家康を脅かす者はいなくなったようなので、ひとまず帰陣することとしました。
「そう言えば、腹が減っておったのを忘れておった」
ひとたび戦となれば一日中でも飢えを忘れて戦うさまは、まさにいくさ人の鑑。
家康は抜群の武勇と一日に二人の大将(森長可、池田之助)を討ち取った大殊勲を賞賛。自分の愛用していた雪荷(せっか。吉田雪荷)作の名弓を褒美に与えたということです。
スポンサーリンク
終わりに・安藤直次は大河ドラマに出る?キャスティングは?
以上、小牧・長久手の合戦における安藤直次の武勇伝を紹介してきました。
NHK大河ドラマ「どうする家康」で割愛されてしまったのは残念ですが、直次の活躍チャンス(関ヶ原、大坂の陣など)はまだまだ残されています。
また徳川頼宣や本多正純との関係についてもエピソードがあり、演じられるのが楽しみです(割愛されるかも知れませんが……)。
もしその場合、誰がキャスティングされるのか、今から予想してみるのも一興でしょう。皆さんは、誰に演じて欲しいですか?
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第六輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 朝日新聞社 編『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年10月
スポンサーリンク
コメント