幼少期から文才にあふれ、平安文学の最高傑作『源氏物語』を世に送り出した紫式部(役名:まひろ)。
しかし本人はどちらかと言えば気難しくて引っ込み思案、よく言えば奥ゆかしい女性だったようです。
そんな紫式部に対して、彼女の娘である大弐三位(だいにの さんみ)は社交的な性格で、その青春を恋愛に彩ったとか。
今回は母とは正反対?だった大弐三位の生涯をたどってみたいと思います。
二度の結婚生活
大弐三位は生年不詳、長保元年(999年)ごろ紫式部と藤原宣孝の間に生まれました。
本名は藤原賢子(けんし/かたいこ)。両親の知性と教養をいかんなく受け継ぐようですが、長保3年(1001年)に父と死に別れてしまいます。
やがて成長した賢子は長和6年(1017年)、母と交代するように出仕。藤原彰子の女房として務めました。18~20歳ころでしょうか。
この時期、藤原頼宗・藤原定頼・源朝任(ともとう)らと交際し、華やかな暮らしを楽しんでいたようです。
やがて藤原兼隆と結婚し、長女(源良宗室)を生みました。万寿2年(1025年)に親仁親王(ちかひと。後の後冷泉天皇)が誕生するとその乳母となり、朝廷内に地位を確立していきます。
後に兼隆とは離婚して高階成章と再婚、長暦2年(1037年)に男児・高階為家を生みました。
そして天喜2年(1054年)、親仁親王が即位すると賢子は従三位典侍(じゅさんみ ないしのすけ)に叙せられ、夫の成章も大宰大弐(だざいのだいに。大宰府の次官)に叙せられます。
通称である大弐三位とは、夫の官職と自身の位階を合わせた呼び名でした。
その他、賢子の通称には弁乳母(べんのめのと)、越後弁(えちごのべん。祖父・藤原為時が越後守だったため)、藤三位(とうのさんみ)などが伝わっています。
天喜6年(1058年)に成章と死別し、永保2年(1082年)八十余歳の生涯に幕を下ろしたのでした。
大弐三位・略年表
長保元年(999年)ごろ | 誕生 |
長保3年(1001年) | 父・藤原宣孝と死別 |
長和6年(1017年) | 藤原彰子に出仕する |
時期不明 | 藤原兼隆と結婚 |
時期不明 | 女児(源良宗室)を出産 |
万寿2年(1025年) | 親仁親王(後冷泉天皇)が誕生、その乳母となる |
長元4年(1031年)ごろ | 母・紫式部と死別か |
時期不明 | 高階成章と再婚 |
長暦2年(1037年) | 高階為家を出産 |
時期不明 | 女児を出産 |
天喜2年(1054年) | 後冷泉天皇が即位、従三位典侍となる |
天喜6年(1058年) | 後夫・高階成章と死別 |
永保2年(1082年) | 死去 |
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大弐三位の詠んだ歌たち
以上、大弐三位の生涯を駆け足でたどってきました。ところで大弐三位と言えば、小倉百人一首でもおなじみの平安歌人。女房三十六歌仙として有名ですね。
せっかくなので、彼女の歌からおすすめをピックアップしてみましょう。
吹く風ぞ 思へばつらき 桜花 心とちれる 春しなければ
【意訳】吹きつける風の、何と無情なことか。桜の花はいつの春も、自ら望んで散ったことはないのだ。
【コメント】恋多き女性として知られる大弐三位ですが、思う所があったのかも知れません。
待たぬ夜も 待つ夜も聞きつ ほととぎす 花橘の にほふあたりは
【意訳】毎晩々々、ホトトギスの鳴き声は聞き飽きました。花橘の香りもろともに。
【コメント】待っていない夜、と言いながら寂しくて眠れなかったようで、ホトトギスの声と花橘の香りがセットで辟易しているようです。
はるかなる もろこしまでも ゆくものは 秋の寝覚の 心なりけり
【意訳】眠れぬ秋の夜長、私の心ははるか唐土(もろこし)まで飛んでゆく。
【コメント】来ぬ人を待ちかね、よほど退屈だったのでしょうね。そのまま天竺まで届くでしょうか。
つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花
【意訳】あなたは薄情な方ですが、あなた以外の誰に、この白菊を見せるものですか。
【コメント】よほど入れ込んでいらっしゃるご様子。周囲が「やめときな」と言っても無駄ですから、暫くそっとしておきましょう。
終わりに
果たして、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、彼女がどんな活躍を魅せてくれるのでしょうか。
他にもたくさん歌を詠まれるでしょうから、早くも来年を楽しみにしています!
【光る君へ キャスト】
※今回言及した人物のみ。令和5年10月時点
- まひろ(紫式部)……吉高由里子
- 藤原宣孝……佐々木蔵之介
- 藤原彰子……見上愛
※参考文献:
- 今井源衛『今井源衛著作集3 紫式部の生涯』笠間書院、2007年7月
- 岡一男『増訂 源氏物語の基礎的研究 紫式部の生涯と作品』東京堂出版、1966年8月
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