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【歴人録】藤原彰子が第二子出産!敦良親王(後朱雀天皇)の生涯をたどる【光る君へ】

平安時代
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NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも観ていますか?

第38回放送「まぶしき闇」では、藤原彰子(見上愛)が第二子を懐妊。この子は敦良親王(あつなが)と名づけられ、後に後朱雀天皇(ごすざくてんのう)と呼ばれます。

今回はこの敦良親王(後朱雀天皇)がたどった生涯を見てみましょう。

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即位までの道のり

第69代・後朱雀天皇(画像:Wikipedia)

後朱雀天皇は寛弘6年(1009年)11月25日、一条天皇の第三皇子として誕生しました。

※彰子の子としては二番目の次男。同母兄弟は兄の敦成親王(あつひら。後一条天皇)のみです。

3歳となった寛弘8年(1011年)に一条天皇が崩御し、寛仁3年(1019年)8月28日に11歳で元服しました。

寛仁元年(1017年)に後一条天皇の春宮・敦明親王(あつあきら。三条天皇皇子)が「自ら」その座を辞退したため、代わりの春宮となります。

これが本当に「自ら」なはずもなく、道長による執拗な圧力があったことは言うまでもありません。

寛仁5年(1021年)には道長の末娘である藤原嬉子(きし/うれしこ、よしこ)が春宮妃として入内。万寿2年(1025年)には待望の皇子・親仁親王(ちかひと。のち後冷泉天皇)が生まれました。

道長は狂喜乱舞したことでしょうが、代わりに嬉子が出産から間もなく急逝してしまいます。

その後に禎子内親王(ていし/定子。三条天皇皇女)と結婚。第二皇子の尊仁親王(たかひと。後三条天皇)はじめ、多くの子宝に恵まれました(合計二男五女)。

いっぽう兄の後一条天皇にはまったく子が生まれず、そのまま崩御したため、長元9年(1036年)4月17日に第69代天皇陛下として即位します。

荘園整理の大事業に乗り出すが……。

父・道長の後を継いで権勢を振るっていた藤原頼通(画像:Wikipedia)

即位後は当時の国家財源を圧迫していた荘園の整理に乗り出しました。

※荘園が増えすぎると、朝廷に税が入らなくなるから。

しかし当時の荘園はほとんど藤原頼通らに独占されており、この既得権益を切り崩すことはできませんでした。

ただし行動を起こしたことで一定の抑止効果があったと評価する説もあります。何でもやってみるものですね。

一代をかけた荘園整理の大事業は芳しい結果とならなかった後朱雀天皇。道長が築き上げた摂関政治の威光は、いまだ衰えていませんでした。

やがて病のため寛徳2年(1045年)1月16日に第一王子の親仁親王へ譲位。第二皇子の尊仁親王を春宮に指名します。

これは三条天皇の血を引くゆえに冷遇されていた尊仁親王に対する配慮でした。

兄弟が争わぬよう願いながら後朱雀天皇は1月18日に出家、同日崩御したのでした。宝算37歳。

終わりに

今回は藤原彰子の第二子で一条天皇の第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)について、その生涯をたどってきました。

道長の死後(万寿4・1027年没)なので、大河ドラマ「光る君へ」における出番はほとんどないかも知れません。

果たして敦良親王には誰がキャスティングされて、どんな活躍が描かれるのか、楽しみですね!

※参考文献:

  • 朧谷寿『藤原彰子 天下第一の母』ミネルヴァ書房、2018年5月
  • 倉本一宏『摂関政治と王朝貴族』吉川弘文館、2000年6月

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