New! 竹ヶ鼻城の水攻めを紹介!

【豊臣兄弟!】知られざる秀吉の水攻め!竹ヶ鼻城の戦いを紹介!【小牧・長久手の戦い】

戦国時代
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豊臣秀吉(羽柴秀吉)と言えば、奇想天外な発想を駆使して、難攻不落の堅城を次々と攻略した活躍で知られています。

中でも敵城の周囲に堤などを築き上げ、水を引き込んで水浸しにする水攻め(水責め)は、敵味方ともに大きなインパクトを与えたことでしょう。

今回はそんな秀吉が繰り出した水攻めの一つ、竹ヶ鼻城(たけがはなじょう。岐阜県羽島市)の水攻めを紹介したいと思います。

果たしてどんな攻防戦が繰り広げられたのでしょうか。

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約1ヶ月に渡る攻防戦

歌川芳虎「小牧山両将軍大合戦之図」

時は天正12年(1584年)5月、秀吉は小牧・長久手の戦いに臨んでいました。

戦上手の徳川家康に苦戦を強いられ、4月の「三河中入り」作戦の失敗後は、戦線が膠着してしまいます。

このままでは埒(らち)があきません。秀吉は作戦を変更して、伊勢国にいる織田信雄や、美濃国の敵対勢力を脅かして家康を誘(おび)き出そうとしました。

まずは5月6日から7日にかけて加賀野井城(かがのいじょう。岐阜県羽島市)を攻め落とし、続いて不破広綱(ふわ ひろつな)が守る竹ヶ鼻城に迫ります。

広綱は織田家臣時代から秀吉と昵懇の間柄で、開戦までどちらにつくか悩んでいました。家臣たちと評定の結果信雄・家康に与することを決めています。

竹ヶ鼻城には700余騎とも7,000余騎とも言われる軍勢が立て籠もっており、そのまま力攻めすれば甚大な犠牲は避けられません。

そこで秀吉は竹ヶ鼻城の北~西~南にかけて、およそ3キロに及ぶ半円形の堤防を築き上げました。

堤防は高さ1丈(約3メートル)、幅14~15間(約25メートル)に及ぶ巨大なもので、そこへ足近川の水を引き入れて水攻めにしたのです。

カネにモノを言わせた突貫工事だったことから、人々はこの堤防を「一夜堤」と呼びました。しかし実際には5~6日の工期を要したものと見られています。

いざ水攻めが始まると、城下では町屋が3尺(約90センチ)も浸水し、城内も二ノ丸まで冠水してしまいました。

城内では難を逃れようと筏を組んだり簀(す)を張ったりなど工夫したそうですが、そこへ逃げ場を失ったネズミやヘビなどが大挙して、婦女子の悲鳴が響いたそうです。

広綱は信雄・家康に後詰(ごづめ。援軍)を要請しましたが、せっかく駆けつけた本多忠勝・織田長益・滝川雄利らの援軍は秀吉の軍勢に撃退されてしまいました。

このまま城を包囲していても家康の本隊が出てくる見込みがないと悟った秀吉は、広綱に対して「全員助命するので開城するように」勧告します。

広綱は秀吉の勧告を受け入れ、6月10日に竹ヶ鼻城を明け渡したということです。そして秀吉は大坂城へ帰還したのでした。

終わりに

明け渡された竹ヶ鼻城(イメージ)

今回は秀吉が行った水攻めの一つ「竹ヶ鼻城の水攻め」を紹介しました。

小牧・長久手の戦い全体から見ると重要な位置を占めているわけではありません。しかしそんな戦いでも秀吉は長大な堤を築き上げており、その強大な財力のほどがうかがい知れますね。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、この竹ヶ鼻城について言及くらいはあるでしょうか。今後も楽しみに見守りたいと思います。

※参考文献:

  • 竹鼻町史編集委員会『竹鼻の歴史』竹鼻町史刊行委員会、1999年
  • 羽島市史編纂委員会『羽島市史』 第1巻、羽島市役所、1964年
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