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明治時代初の国際結婚「EUの母」と呼ばれた「黒い瞳の貴婦人」クーデンホーフ光子の生涯【上】

明治時代
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かつてヨーロッパ社交界の華となった日本人女性。「黒い瞳の貴婦人」「レディ・ミツコ」などの二つ名で呼ばれた彼女こそ、クーデンホーフ光子(-みつこ)。

明治時代から昭和時代にかけて生き抜いた光子はなぜヨーロッパに渡り、どのように生きたのでしょうか。今回はそんな彼女の生涯をたどってみたいと思います。

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ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵との結婚

光子は幕末維新の余韻も冷めやらぬ明治7年(1874年)7月24日、東京府牛込(現:東京都新宿区)で骨董商を営む青山喜八(あおやま きはち)と青山津禰(つね)の三女として誕生しました。

最初の名前は青山みつ。後に「みつ」に前向きな意味を込めた「光」、そして日本人女性らしい「子」をつけて「光子」と改名しましたが、もしかしたら最初の名前は「三つ目の娘」程度の意味で「みつ」だったのかも知れません。

(昔は女の子がたくさん生まれると、下の子ほどうんざりして『留』『あぐり』などぞんざいな名前をつける事が多くありました)

ハインリヒと光子。Wikipediaより

何はともあれ18歳となった明治25年(1892年)、オーストリア=ハンガリー帝国の大使公邸へ奉公し、そこで未来の夫となる駐日代理大使ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵と出逢い、見初められます。

一説には乗馬中に転落してしまったハインリヒを手篤く介抱してくれる様子に惚れ込んだとも言われ、互いに惹かれ合うようになったのでした。

1年ほどの交際を経て明治26年(1893年)に二人は結婚しますが、周囲は猛反対。

「我が青山家から、異人の妾(めかけ。側室、愛人)など出したくない」

当時の国際結婚(特に日本女性が外国人に嫁ぐ場合)は、海外赴任の外国人に現地妻をあてがって便宜を図ってもらうなど世間体が悪かったため、光子は両親から勘当されてしまいます

また、ハインリヒは青山家に対して多額の結納金を支払ったとも言われ、世間的には「大金に目が眩んで娘を売った」と後ろ指を指されかねない気まずさから、後に日本を出た光子は、生涯帰国しませんでした。

ただし、ハインリヒは生涯かけて光子を愛し抜く覚悟であったらしく、東京府に対して史上初となる正式な婚姻届けを提出。フランス人カトリック神父フランソワ・リギョールの立ち合いで光子に洗礼を受けさせ、キリスト教徒として迎えています。

イメージ

(普通はここまでせず、異郷とだろうが何だろうが、そのまま適当にあしらっておいて帰国時は現地に残し、そのまま一生涯放置というパターンも珍しくありませんでした)

そんな二人の夫婦仲は円満で、日本にいる間に長男・ハンス(日本名:青山光太郎)と次男のリヒャルト(日本名:青山栄次郎)を授かりました(ちなみに、このリヒャルトは後世「EUの父」と呼ばれるようになるのですが、その話は後述)。

日本を離れた光子、「黒い瞳の伯爵夫人」に

さて、二人の新婚生活はあっという間に過ぎていき、明治29年(1896年)にハインリヒがオーストリア=ハンガリー帝国へ帰国する際、光子らも一緒についていきます。

「異国にいても、日本人としての誇りを忘れないでください」

昭憲皇太后(当時は皇后)陛下。Wikipediaより

日本を出発する前、光子は昭憲皇后(しょうけんこうごう。明治天皇后)に謁見して激励を賜りました。

「はい。大日本帝国の淑女として、恥じぬよう努めて参ります」

果たしてオーストリア=ハンガリー帝国へ渡った光子は晴れてハインリヒの生家クーデンホーフ家の一員となります。

ところでクーデンホーフ家はボヘミアとハンガリーに広大な領地を持つものの伝統と格式において他家に一歩譲る新興貴族で、周囲の貴族たちから浮いていたコンプレックスもあってか、極東アジアからやってきた光子に奇異の目を向けます。

遠く異郷の地で頼れるのは夫ただ一人という状況下において、良くも悪くも好奇の目に晒されるのは、大変なストレスだったことでしょう。

そんな光子を守るため、ハインリヒは親族一同に対してこう宣言しました。

「光子をヨーロッパ人と等しく扱わぬ者は、たとえ血肉を分けた親族であろうと私の敵と見なし、例外なく決闘を申し込む!」

ハインリヒの断固たる決意を前に、親族たちも光子を東洋から面白半分に連れて来た妾ではなく、生涯を添い遂げるべく覚悟した伴侶であることを認識。家族の一員として迎えられていきます。

「光子を侮辱する者は許さない!」幸い、決闘には至らなかった模様(イメージ)

一方で、ハインリヒは光子に対しても「郷に入っては郷に従え」ということで、子供たちをヨーロッパ人として育てるため、日本語の使用を禁止し、日本から連れて来た乳母も帰国させてしまいました。

「光子の誇りは尊重したいが、ここは日本ではない。オーストリア=ハンガリー帝国の同胞としての自覚と、クーデンホーフ家に相応しい品格を、君にも持ち備えて欲しい」

「……Ja ich verstehe.(はい、解りました)」

日本人としてのアイデンティティを否定され、強烈なホームシックにかかってしまった光子ですが、すべて投げ出して日本へ逃げ帰りたくなるたび、昭憲皇后から賜った激励を思い出します。

(ここで逃げ帰っては、私のせいで日本女性が笑い者になってしまう……夫の愛だけを信じて、どんな困難も乗り越えなければ!)

また、小学校卒業程度の学力しかなかった光子は、18ヶ国語に精通するなど豊かな教養を持っていた夫ハインリヒに少しでも釣り合うように猛勉強しました。

目標を持つことで苦しさを乗り越えて地理、歴史、数学、礼儀作法などを身に着け、さらにフランス語・ドイツ語をマスターするトライリンガルに成長。

社交界の華となった「黒い瞳の貴婦人」光子。Wikipediaより

伯爵夫人として恥ずかしくない気品と素養を供えた光子は社交界にもデビューし、人々から「黒い瞳の貴婦人」などと呼ばれ、一目置かれるようになったと言います。

それでも最初の内は「黄色いアジア人」などと心ない声もあったようですが、明治38年(1905年)に日本がロシア帝国との戦争(日露戦争)に勝利し、日本の国際的地位が向上するにつれて、偏見も和らいでいったそうです。

かくしてヨーロッパ社交界の華として脚光を浴びた光子でしたが、彼女の前途には、世界中を巻き込む戦争の暗雲が立ち込めていたのでした……。

【続く】

※参考文献:
木村毅『クーデンホーフ光子伝』鹿島出版会、1986年10月
シュミット村木眞寿美 編『クーデンホーフ光子の手記』河出書房新社、2010年8月
堀江宏樹ら『乙女の日本史』東京書籍、2009年7月
南川三治郎『クーデンホーフ光子 黒い瞳の伯爵夫人』河出書房新社、1997年5月

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